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ふさわしくないまま食べちゃった【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書6:53〜59、コリントの信徒への手紙一11:23〜29

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 ミッションスクールの学生が、キリスト教概論で課題を出され、近くの教会の礼拝に出て、感想を書くため、日曜日、教会へ来てくれることがあります。先週の日曜日も、華陽教会をはじめ、岐阜地区の諸教会へ、済美学院や金城学院の生徒たちが来てくれました。そんなふうに、初めて礼拝へ参加してくれた学生から、よく質問されることがあります。

 「教会で行われている、パンとぶどう酒を飲む儀式は、参加できる人が決まっているんですか?」「どういう人が、あのパンとぶどう酒を飲めるんですか?」……毎年、私が受け持つキリスト教概論で、礼拝の感想を募集すると、ほぼ必ず出てくる質問です。つまり、毎年、聖餐式の食事の意味が「伝わらない礼拝」を私たちはやっています。

 皆さんは、あのパンとぶどう酒を飲む儀式、「聖餐式」の食事の意味を、初めて来た人や学生たちに、自分の子どもや孫たちに、伝えることができるでしょうか? 伝えようとしたことはあるでしょうか? カトリックならほぼ毎週、プロテスタントならだいたい月に一回程度、行われている聖餐式……大切な、大切な、食事の意味。

 おそらく、言葉にしたことがあるとすれば、「洗礼を受けたらいただける」という説明じゃないかと思います。あのパンとぶどう酒は、洗礼を受けて、キリスト教の信徒になったらいただける。でも、洗礼を受けてない、信仰告白をしてない人は、受けてはいけないことになっている。たぶん、そのような説明をすることが多いんじゃないかと思います。

 中には、何も知らずに礼拝へ出て、配られたパンとぶどう酒を取り、全部いただいてから、「あれは洗礼を受けてないと、もらっちゃダメなものですよ」と言われて、焦った経験がある人も、いるかもしれません。むしろ、そういう人を見かけて、思わず、怒ってしまった信徒もいるかもしれません。「それは、信徒にならなきゃ食べちゃダメ!」と。

 もし、それでも食べてしまったら……洗礼を受けていないのに、信徒になっていないのに、パンとぶどう酒を飲んじゃったら、いったいどうなるんでしょう? 皆さんの脳裏に浮かぶのは、次の言葉じゃないかと思います。「ふさわしくないままで主のパンを食べ……その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すこと」になる。

 7年前まで使っていた口語訳の式文にも、この言葉が載っていました。聖餐式で、繰り返し聞いてきたからこそ、ふさわしくないまま、洗礼を受けないまま、聖餐のパンとぶどう酒を受け取ったらいけないんだと、考えている人が多いんじゃないかと思います。実際、聖餐式で度々読まれる、コリントの信徒への手紙には、こうも書いてありました。

 「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」……なるほど。もし、ふさわしくないまま、洗礼を受けずに、パンとぶどう酒を受け取ったら、自分自身に神の裁きが下されるのか……そういうふうに感じますよね?

 でも、ここで言われている「ふさわしくない」って、単純に「洗礼を受けてない」ってことなんでしょうか? 「洗礼を受けた人だけが食べて良い」ってことなんでしょうか? 実は、そう単純ではありません。むしろ、ここで「ふさわしくない」と言われているのは「互いに食事を分け合おうとする意識がない」ことなんです。

 手紙の少し前、17節以下の文章には、コリントの教会で仲間割れのあったことが書かれています。特に、貧しい者とそうでない者との間に、大きな溝ができていました。そして、みんなで一緒に集まっても、食事のとき、「我先に」と自分の分を食べてしまい、食事が行き渡らない人、空腹のまま帰される人もいたことが伝えられています。

 だからこそ、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」という30節の悲惨な状況が生まれたんです。自分たちの隣に、前に、後ろにいる者が、パンを受け取ることができたのか、杯をいただくことができたのか、全く気にしないで、聖餐式にあずかるとき、神の恵みを分け合う食事は、「分かち合い」になりません。

 もし、初めてきた人に、洗礼を受けてない人に、「あなたはパンを取っちゃダメ」「あなたは杯を受けちゃダメ」と言うだけなら、私たちの食事は「我先に」と自分の分だけ取ろうとする、貧しい食事に他なりません。私はふさわしいから食べてよくて、あなたはふさわしくないから食べちゃダメ……という態度は、本来の主の晩餐から離れています。

 聖餐式は、イエス様が十字架につけられる前、弟子たちと共にとった食事と、復活後に再会した弟子たちと共にとった食事から始まりました。裂かれたパンは、イエス様が私たちのために命をささげてくださったことを、注がれたぶどう酒は、私たちのために血を流してくださったことを思い起こすため、分けられます。

 それは、イエス様が、自分を見捨てる弟子たちのために、分けられた食事でもありました。それは、イエス様が、自分に気づかない弟子たちのために、分けられた食事でもありました。実は、イエス様が、パンと杯を分けた弟子は、誰一人、弟子として「ふさわしい」とは言えない状態の者でした。

 しかし、ふさわしくない者が、ふさわしい者となるように、信じない者が、信じる者となるように、イエス様は、自分のことを思い出すよう、この食卓に着きなさい、とおっしゃいます。これから自分を裏切る者に、これから自分を見捨てる者に、甦った自分に気づかない者に、イエス様は、パンと杯を手渡していきました。

 もし、聖餐の意味を知らないまま、パンと杯を受け取った者がいたとしたら、その人のためにすることは、「あなたはふさわしくない」と断罪することではありません。この食事がどういう意味かを伝え、「あなたのためにも、キリストはパンと杯を分けにきた」「あなたのことも、信じない者から信じる者となるように、キリストは新しく出会われる」……そのように証しすることです。

 私が初めて、教会で聖餐式を受けたのは、洗礼を受けた中学2年生の頃でした。しかしその前、小学校3年生か4年生くらいの頃、忘れられない聖餐式に出たことがあります。それは、父の実家がある大阪の教会で、礼拝に行ったときのことです。まだ洗礼を受けてない、私と、双子の弟と、父方の祖母が、一緒に礼拝に出ていました。

 その日は、月の最初の日曜だったので、礼拝の中で聖餐式がありました。当然、私たちは洗礼を受けていないので、パンとぶどう酒は配られません。他の大人たちが、パンと杯を受け取っていく中、私と弟はおとなしく、聖餐が終わるのを待っていました。その時、祖母がポケットから3つ、小さな飴を取り出しました。

 そして、みんながパンとぶどう酒を飲むタイミングで、私と弟の口に一つずつ、飴を入れてくれたんです。それまで、礼拝の中で聖餐式があるときに、子どもの自分たちを気にしてくれた大人たちは、そんなにありませんでした。聖餐式の間、大人と目が合うことはほとんどありませんでした。

 何なら、「パンとぶどう酒を欲しがったら面倒だな」と、目を合わさないようにしていたのかもしれません。しかし、洗礼を受けていなかった私の祖母は、子どもの私たちと目を合わせ、みんなと同じタイミングで、恵みを分かち合えるよう、自分の持っているものを一緒に分けてくれました。

 後から振り返って思ったんです。ここに、イエス様が居たんだと……ここに、イエス様が来てくれたんだと……それが、私にとって、聖餐式の意味を伝える、最初の出来事となりました。もう一つ、私の印象に残っている、思い出深い聖餐式があります。それは、私が学生の頃、初めてカトリックの教会で、礼拝に出たときのことです。

 一度、プロテスタントの教会以外にも行ってみよう……ということで、私は近くにある仁川のカトリック教会へ出かけていきました。ちょうど、土曜日の夕方にも礼拝をしていたので、神学生でも、他の教会へ出席することができたんです。けれども、カトリックの礼拝で、プロテスタントの自分が、聖餐にあずかることは遠慮しようと思っていました。

 同じキリスト教会ですが、聖餐についての考え方は、大きく異なるところもあるため、黙って聖餐を受けるのは、誠実じゃない気がしたからです。その日、初めてカトリック教会を訪れた私は、慣れない礼拝に四苦八苦していました。讃美歌も、祈祷書も、どれを開けばいいか分からず、何とか開けても、どこを読めばいいか分からなかったからです。

 そのとき、初めて来た私に気がつき、隣に座って、今どうしたらいいか教えてくださる方がいました。その方は、讃美歌や祈祷書を開くサポートをするだけでなく、礼拝の中で今何が行われているか、丁寧に教えてくれました。毎年、オープン礼拝で、礼拝の諸要素を一つ一つ説明しながら行っているのは、その方の姿に、私が心を打たれたからです。

 やがて、聖餐式が始まると、その方は、自分と一緒に前へ行こうと促してくださいました。しかし、私は「プロテスタントの信徒なので、カトリックの聖餐を受けるのは、遠慮しようと思っている」と伝えました。すると、予想していなかったことが起きました。その方は、少し考えてから私に言うんです。

 「一緒に行きましょう。前へ行って両手を合わせてください。神父があなたを祝福してくれます」……見ると、前へ行く人の中には、両手を差し出して「ホスチア」という平たいパンを口に入れてもらう人たちと、両手を合わせて、神父から手を置いて祈ってもらう人たちがいました。その中に、私も加わるよう、促されたんです。

 私は、カトリックの聖餐にはあずかれない、カトリックの聖餐にはふさわしくないと思っていました。しかし、隣の人と前へ出て、みんなと一緒に祝福を受け、神の国の食卓に自分も招かれていることを、確かに知ることができました。この体験が、華陽教会の聖餐式で、パンと杯を受けない人へ、みんなで祝福を宣言することにつながっています。

 イエス様は、私たちに、主の食卓を準備するとき、ふさわしくない者を弾くためではなく、ふさわしくない者が、ふさわしい者となるように、「神の言葉の見えるしるし」をくださいました。ここにキリストがおられることを、ここへキリストが来てくれたことを、知ることができるようにされました。

 だから、私たちもそのパンを食べ、その杯を飲む毎に、隣に、前に、後ろにいる人へ、キリストの姿を見せるんです。さあ、この方の恵みにあずかりましょう。この方の招きにあずかりましょう。共に食卓を囲みましょう。「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。