見出し画像

助けられた救い主【クリスマス演奏礼拝】


《はじめに》

華陽教会のクリスマス演奏礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書2:1〜20、マタイによる福音書2:1〜15

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

かつて、天使のお告げを受けた羊飼いは、生まれたばかりの救い主が、飼い葉桶の中に寝ていることを知りました。まともなベッドではなく、動物の餌箱の中に、赤ん坊が寝かされている。それは自分たちと同じく、泊まる家がないことを示していました。
 
彼らは急いで、赤ちゃんを探しに行きました。泊まる部屋のない家族が、突然、家畜小屋をあてがわれた夫婦が、どれだけ大変か知っていました。でも、同じ境遇の自分たちなら、助けられることがありました。
 
普段、野宿をするとき使っているもの、赤ちゃんが生まれたときに必要なもの、家の外で食べられるもの、それらを用意できました。その日、羊飼いたちは、単に、救いを待ち望む者ではなく、最も小さな者を助ける者となりました……。

かつて、救い主を身ごもったマリアとヨセフは、宿屋がいっぱいであるのを聞いて、まともな家で赤ちゃんが産めないことを知りました。本来は、人を泊める場所ではない、家畜小屋を案内され、そこで寝泊まりするよう言われました。
 
ヨセフは急いで、小屋を整え始めました。大工の家だった彼は、隙き間風が入らないように、体を横にできるように、そこにある板や藁を掻き集め、火事にならないよう火を起こし、マリアと赤ちゃんのために寝床を用意していきました。
 
マリアも親戚のエリサベトに教わったことを思い出して、赤ん坊をあやし、飼い葉桶の中で安心して眠れるように付き添いました。その日、マリアとヨセフは、単に、救いを待ち望む者ではなく、最も小さな者を抱えて、一緒に見守る者となりました……。

さて、天使のお告げを受けて、救い主の赤ちゃんを探しに行った羊飼いは、その家族が、どこにいるのか知りませんでした。「ベツレヘムの町にいる」ということ以外、詳しい場所は、天使から聞いていませんでした。
 
彼らは、ベツレヘムに着くと、家畜小屋がある家を一軒、一軒、訪ねて行きました。「お宅の家畜小屋に、赤ちゃんが生まれた若い夫婦は居ませんか?」「生まれたばかりの赤ちゃんと、若い夫婦を小屋に泊めてはいませんか?」
 
聞いた人は皆、心配します。旅先で部屋に泊まれず、屋外で、家畜小屋で、赤ちゃんを産んだ夫婦がいる。「うちに泊まれ」とは言えないけれど、何かできることはないだろうか? そうだ、あの布を持って行ってあげてほしい。このパンをお母さんにあげてほしい。
 
赤ちゃんを見つけたら、どんな様子だったか知らせてください……その日、羊飼いから知らせを受けて、天使が話したとおりだったと聞いた人々は、単に、救いを待ち望む者ではなく、最も小さな者の無事を、一緒に祈る者となりました……。

かつて、東の方からやってきた、占星術の学者たちは、新しい王が生まれたことを星によって知りました。けれども、ユダヤ人ということ以外、その赤ちゃんがどこにいるのかは分かりませんでした。彼らは、ユダヤ人の首都エルサレムで、人々を訪ねて回ります。
 
エルサレムには、自分以外の王が生まれることを、誰よりも恐れているヘロデがいました。ヘロデに「メシアはどこに生まれることになっているのか」と聞かれた人々は、その子が殺されるかもしれないのに、「ユダヤのベツレヘムです」と答えてしまいました。
 
しかし、赤ちゃんを見つけたら、すぐに殺せるよう、学者たちに見張りをつける者はいませんでした。一緒に探しに行く家来はいませんでした。その日、エルサレムから学者たちを送り出した人々は、単に、救いを待ち望む者ではなく、最も小さな者のために、密かに抵抗する者となりました……。

さて、東方で見た星に導かれ、救い主と出会えた学者たちは、夢の中で、ヘロデが赤ちゃんに害をなそうとしていることを知りました。彼らは、下手すれば外交問題になるかもしれない中、ヘロデに逆らい、別の道を通って帰って行きました。
 
さらに、天使が夢でヨセフに現れ、ヘロデから子どもを守るため、エジプトへ逃げるよう言いました。エジプトは、かつてイスラエルの祖先を奴隷にして苦しめた、恐ろしい大国の一つでした。実は、占星術の学者たちも、イスラエルを滅ぼした大国のある、東の方の出身でした。
 
ヨセフとマリアは、かつて敵だった国の者が、時間を稼いでいる間、かつて敵だった国へ避難し、赤ちゃんの命を守りました。その日、イスラエルと敵対していた国の者は、単に、救いを待ち望む者ではなく、最も小さな者を、大胆に助けた者となりました……。

こうやって、聖書を少しずつ読んでいくと、ちょっと不思議な気持ちになってきます。なぜなら、救い主が登場するシーン、初めて現れる場面を見ると、生まれてきた神の子は、「人々を救う者」というより、「人々に守られている者」に見えてしまうからです。
 
なにせ、イエス様の誕生は、最初からピンチの連続です。母親のお腹の中にいるときは、容赦無く住民登録を命じられ、旅の途中で流産しても、おかしくない状況でした。移動中に、激しく揺れないよう気を遣って、ゆっくり進んでいったヨセフは、町に到着するのが遅くなり、宿を取ることができません。
 
しっかりとした壁もなく、ベッドもなく、家畜小屋で生まれた救い主は、布に巻かれて、飼い葉桶に寝かされて、何とか安眠できるよう、みんなに世話されて過ごします。後から駆けつけた羊飼いは、野宿をするのに必要なものや、産気づいて、食べ物を買うどころではなかった夫婦に、持ってきたパンを恵んだでしょう。
 
東から来た占星術の学者たちも、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげます。もし、これらの贈り物がなかったら、ヘロデの手から逃れるため、エジプトへ渡るための費用も作れなかったでしょう。おそらく、外国の言葉をしゃべれなかったヨセフとマリアは、それでも、救い主の赤ちゃんを守るため、必死に外国へ避難します。
 
色んな人たちの協力で、この小さな赤ちゃんは、あらゆる死の危険から守られて、生き延びることができました。人々を救うためにやってきたメシアは、人々に救われてきたメシアでもありました。こんなこと言うと、「人間が神を救うなんて、神の子を救うなんて、おこがましい」と叱られるかもしれませんが、イエス様は生涯にわたって、多くの人を頼りにされた方でした。
 
神の子なのに、洗礼者ヨハネのもとで、「洗礼を受けさせてほしい」と頼み、十字架につけられる前は、弟子たちに「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と頼みました。復活した後は、自分を見捨てた者に対し、「わたしの羊を飼いなさい」と頼み、自分の復活を疑う者にも「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と頼みました。
 
私についてきてほしい、私と一緒に居てほしい、私と共に歩んでほしい……実は、イエス様こそ誰よりもあなたのことを必要とし、あなたの助けを固く信じて、頼りにしているお方です。救いの完成に、あなたが必要だと呼んで、あなたに協力を頼む方です。たとえ、裏切ろうと、見捨てようと、突き放さずに会いに来て、やっぱりあなたが必要なんだと、手を掴んでくる方なんです。
 
不思議なことに、救いを待ち望む一人一人が、救い主にも必要とされています。ただ、助けられる者ではなく、ただ、励まされる者ではなく、救いの業を一緒に担う、共に軛を追う者へ、いつの間にか変えられています。マリアも、ヨセフも、羊飼いも、博士たちも、最初はただ、救いを待ち望んでいる者でした。待っているだけの者でした。
 
でも、この方は、待っている者を起き上がらせ、立っている者を歩き出させ、助けを呼ぶ者を、一緒に助ける者へ、新しく変えていくんです。一方的な関係で、終わらせない方なんです。本当の救いは、私たちが自分を情けなく思うまま、自分を愚かに思うまま、助けられて終わるものではありません。自分を信じている者に応え、新たに歩み出せたとき、私たちの救いは始まります。
 
だから、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。だから、ヨセフはマリアを迎え、生まれた子に「イエス」と名付けました。だから、羊飼いたちはベツレヘムへ出発し、博士たちは星を見て、幼な子のいる家を探しました。救い主誕生の知らせは、一人一人を変えていきました。新たな出発をもたらしました。
 
今日、ここに集まった皆さんも、イエス様から頼りにされている一人です。「私がそんなはず……」「私を頼るなんて……」と思うなら、天使に身ごもったことを知らされたマリアを思い出してください。一度は離婚を考えた、ヨセフを思い出してください。ヘロデに王の誕生を告げてしまった、博士たちを思い出してください。「彼ら」は「あなた」でもあるんです。
 
クリスマスに礼拝へ行けず、教会の外で、この配信を見た方も、思い出してください。救い主が生まれたのは、立派な神殿の中でも、王宮の中でもありませんでした。まともな部屋でさえ、ありませんでした。あなたがいるところは、まさに、イエス様がお生まれになったところです。救い主は今日、あなたの腕の中で生まれたんです。
 
ピアノを、ギターを、オルガンを……グロッケンを、ヴァイオリンを……賛美と祈りを、心の声を……一人一人がささげた今、喜びを分かち合う民が、新たに生まれた日となりました。聖書は、今日のことをこう伝えています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」……アーメン。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。