![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/150198749/rectangle_large_type_2_f9171c35bf9263497e71be351df37ab0.jpeg?width=1200)
長老と会衆【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙5:1〜16
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙一、テモテへの手紙二、テトスへの手紙には、教会の職制に関する教えが出てきます。監督、教師、奉仕者など、教会組織の在り方や役職の選び方、指導の仕方などについて、これまでも色々な言葉が出てきました。今回は、教会の長老に関する教えです。
長老というと、年配の人というイメージがありますが、ここでは、教会の役員に当たる人たちです。現在では、教派・教団・教会によって「執事」や「幹事」とも呼ばれますが、基本的な役割は同じです。牧師や司祭の補佐を行い、教会の事務を奉仕します。会衆から見える役割としては、礼拝の奉仕が、真っ先に挙げられるでしょう。
礼拝の司会を行ったり、聖餐式のパンとぶどう液を配ったり、受付や奏楽の担当表を作ったり、集めた献金の会計報告も行います。葬儀の際には、教会員へ連絡を回したり、ご遺族と一緒に受付したり、牧師と一緒に式次第の用意をすることもあります。場合によっては、牧師が講壇に立てないとき、長老(役員)が「信仰の証」をすることもあります。
このように、牧師や司祭を手伝って、教会の事務を奉仕することは、それ自体が、会衆に対する「指導」にもなっています。たとえば、日曜日、少し早めに会堂へ来た人は、その日、司会をする役員が、小声で、聖書朗読や交読詩編の練習をしていたり、礼拝前に、お祈りしているところを見るでしょう。
初めて来た人を見かけると、率先して、聖書や賛美歌の開き方を教えているところも見るでしょう。そのような姿を通して、自分も礼拝前に心を静め、神の言葉を受け取るための準備をしたり、一緒に集まった人たちへ、神様の愛を伝える意識を共有したり、会衆も変化を促されます。
「よく指導している長老たち」と言われると、牧師のように、聖書の話ができる人や、集会をリードする人をイメージするかもしれませんが、単に、先生のように教えられる人だけが「よく指導している」と言われているわけではありません。奉仕している姿を通して、会衆との関わりを通して、自然と、信仰生活の指導をする人もいるからです。
そんな長老たちですが、教会によっては、「その働きを通して信仰生活を導いてくれる人」というより、単なる雑用のように見なされてしまう人もいます。「その人から何かを学ぼう」という目ではなく「あれもこれもやってくれる人」という意識で、便利に扱われている人もいます。
しかし、テモテへの手紙には、「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい」と言われています。聖書協会共同訳では、「二倍の尊敬に値すると心得なさい」となっているように「報酬」という言葉は「尊敬」とも訳せる言葉です。
どうやら、この手紙を送られた教会でも、長老に対して敬意を抱かず、その人の奉仕を「やってもらえて当たり前」のように受けとめる人たちがいたようです。むしろ、信仰者は皆平等だから、自分と変わらない存在だから、長老に対して、敬意を抱く必要はない、と考えてしまう人もいました。
確かに、信仰者は皆平等なんですが、「平等な相手」というのは「感謝や尊敬の念を抱かなくていい相手」ということではありません。むしろ、長老は、教会のみんなから選挙によって選ばれ、会衆のとりなしによって、神から務めを与えられている存在なので、その人の奉仕に、何の関心も抱かないのは、神様に対しても失礼なんです。
長老・役員が担っている働きは、会衆と切り離されたものではなく、会衆全体に広がっていくべき働きです。長老は、長老だけに任された働きをするのではありません。長老が率先して、その働きを見せることで、皆さんも、一緒に集まる人たちと、信仰を共有するための、信仰を支え合うための働きを、教えられているんです。
同時に、テモテへの手紙は、長老を崇め奉るように扱うのではなく、長老が過ちを犯せば、きちんと訴え出るように勧めています。長老が罪を犯していたら、隠蔽したり、偽装したりするのではなく、教会として、きちんと対処し、えこひいきしてはならないことを伝えています。
また、22節の「性急にだれにでも手を置いてはなりません」という言葉は、「誰にでも安易に長老の任命を行うな」という意味か、「罪を犯した長老の復帰は、慎重に検討しなさい」という意味か、「長老会でちゃんと準備もしないまま、人々の洗礼を推し進めるな」という意味か、三通りの受けとめ方が考えられます。
もしかしたら、教会総会で役員選挙を行うとき、「たくさん奉仕を担ってくれそうだから」という理由で、洗礼を受けたばかりの人や、転会してきたばかりの人を、安易に、新しい役員に選んでしまう人もいるかもしれません。しかし、役員は、会衆のお世話係でも、奉仕を押し付ける相手でもありません。そのような選び方は、誠実ではないんです。
また、献金の横領やセクハラなど、罪を犯した長老・幹事・役員の復帰も、「他に奉仕を担える人がいないから」という理由で、安易に認めていいものではありません。教会組織で「罪をゆるす」ということは、「その人と一緒に責任を持つ」ということです。無責任な振る舞いを放置することは、「罪のゆるし」ではなく「罪への加担」です。
罪を繰り返す環境を放置して、十分な対策をしないまま、現状維持をしていくことは、本当の愛ではありません。アルコール依存症の人が、「もうお酒を飲みません」と言ったから、酒蔵の管理を任せます……と言うようなもので、これは相手のためになるどころか、暴力的な行為です。復帰に必要な環境や過程を整えず、安易に復帰させてはなりません。
さらに、教会によっては、礼拝へ来るようになって間もない人に、碌な説明もしないまま、とにかく、すぐに、洗礼を授けてしまうところもあります。信者をたくさん増やしたいから、奉仕の担い手が必要だから、という理由で、長老たち、役員たちも、洗礼をすぐに、承認してしまうことがあります。
しかし、洗礼式は、強引に誘導された信仰告白をさせる場所ではありません。そのような洗礼は、イエス様とその人との関係を蔑ろにしています。長老会や役員会は、奉仕の担い手を増やすために、信者の数を増やすために、洗礼を承認するのではなく、イエス様との関係を、誠実に築いていくために、一人一人の洗礼に向き合います。
長老と会衆の在り方は、「これが正解」と簡単に示せるものではありませんが、テモテへの手紙から、どのような点に気をつけなければならないか、どのような関係を築いていくことが期待されるか、改めて考えさせられます。共に、キリストの体である教会を築く者として、誠実な働きができるように、祈りを合わせていきましょう。
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。