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善い行いは何のため?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テトスへの手紙2:11~3:7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 全ての人のために十字架にかかり、復活して、天に昇ったイエス様が、再び地上へ来られるときを待ち望む、アドヴェント第2週目を迎えました。キリスト教では、世の終わりに、イエス様が再び来られるとき、死んだ者たちが甦らされ、全ての悪が滅ぼされ、私たちが、新しい天と地、神の国に迎えられる日を、救いの完成として待ち望みます。

 その日には、朽ちることのない新しい体で復活し、朽ちることない新しい世界に受け入れられ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、永遠の神の国で、一緒に住む恵みが与えられます。実は、その日、その時、新しい体に甦らされる「永遠の命」「新しい命」は、既に、イエス様を信じる一人一人に与えられていると言われます。

 けれども、いわゆる「天の国」「神の国」に何の条件もなしに迎えられるとは、なかなか信じられません。それこそ、神様の命じた掟を守り、善い行いに励まなければ、いくら、「イエス様を信じます」「神様を信じます」と言ったって、救いにあずかることはできないと思われるかもしれません。

 事実、テトスへの手紙をはじめとする牧会書簡では、健全な教えを守ること、善い行いに励むことが勧められ、テモテへの手紙一と二でも、この世でどのように生きるべきか、何に気をつけて行動すべきか、事細かく教えられていました。しかも、終末における神の前での審判に触れて、戒めを守るよう、伝道に励むよう勧められます。

 これまでの聖書研究祈祷会で、いくつか触れてきたように、それらは必ずしも、字義通りに、実践することが適切なわけではありませんが、誠実に、健全に、善い生き方をするように、目指すところは変わりません。一方で、テトスへの手紙には、こんな言葉も書かれていました。

 「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」……どうやら、善い行いをすることが、救いの条件になるわけではないようです。

 むしろ、私たちの努力や行いによってではなく、神様からの無償の愛の恵みによって、「義とされる」(正しい者とされる)ことで、神の国に「ふさわしくない者」から「ふさわしい者」にしてもらえると告げられます。不思議なことに、キリスト者に善い行いが勧められている箇所にもかかわらず、善い行いが救いの条件とは言われないんです。

 では、善い行いが救いの条件でないのなら、善い行いは何のために勧められているんでしょう? 「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と命じられている聖書の言葉は、何のために実践するんでしょう? それはまさに、「救いの条件」としてではなく、「感謝の応答」のために行います。

 「感謝しなければ救われない」という意味ではありません。救いを信じた者は、自然と感謝する者へ変えられていき、恵みを分かち合う者へ変えられていくんです。なぜなら、自分が救われるために、何か条件を達成しなければ……という思いからは「心から隣人を思う行動」ではなく、どこまでも「自分のための行動」しかできません。

 しかし、何かの条件によってではなく、無償の愛によって救われることを信じるなら、自分のために、自分が救われるためにではなく、心から隣人のために行動することができるようになります。「信仰義認」を教えたとされるパウロや「信仰のみによる救い」を訴えたマルティン・ルターが語ってきたのは、まさに、この恵みです。

 利己的な動機から、自分のエゴから解放されて、本当に心から、人のために愛を実践する者へ変えられていく……それが、キリストによって、新しい生き方に変えられるということであり、復活の日の先取りである、新しい命を与えられるということです。善い行いは救いの条件ではなく、救いを信じた者から溢れ出ていくしるしなんです。

 けれども、救いを信じるだけで救われるなら、信じたあと、善い行いをする人が、居なくなってしまわないか? 人間の側の努力をする人が、減ってしまわないか? そんな教えを広めてしまっていいんだろうか? という心配もあると思います。受洗の学びでも、少し話しましたが、私はこれに対して、よくこういうたとえをします。

 本来なら死んでしまう患者を、絶対に見捨てないで、100%治療を成功させられる優しい医者が、あなたや、あなたの大切な人を助けてくれると約束したとき、「この医者の治療は、必ず成功するものだから」と、自分は何もしないでしょうか? 本当は死ぬような病気であるにもかかわらず、絶対にそれを治してくれると知ったとき「これでもう平気だ」と何の応答もしないでしょうか?

 むしろ、この人は絶対に自分を見捨てず、治療を成功させてくれると信じたら、感謝せずには居られませんし、治療に協力しようとせずにはいられません。また、自分の大切な人が、その医者を信じないで、「どうせ私は助からない」という失礼な態度を取っていたら、たとえ、この医師は絶対に見捨てないで助けてくれると分かっていても、治療を受ける人に対し、「本当に助けてくれるから、安心してほしい」と言わずにはいられないでしょう。

 あるいは、治療を受ける人が、自分の病気を軽く見積もって、「あの医者の言うことはでたらめだ」「治療をしなくても自然に治る」と的外れなことを言っていたら、たとえ、この医者は絶対に見捨てないで、助けてくれると分かっていても、「この人の言葉を信じてほしい」「本当にあなたを死から救おうとしているんだ」と言わずにはいられないでしょう。

 それが、救いを信じる者の応答であり、しるしであり、私たちキリスト者が他者に伝道することの意味だと思います。まとめると、キリスト教徒は、救われるための条件ではなく、救いに対する応答として、善い行いを実践します。献金や奉仕や伝道は、神の恵みに対する感謝の応答であって、救いの条件ではありません。

 まともな教会なら、「救われるためにこれだけ献金しなさい」「このままじゃ、奉仕が足りないから救われない」なんて言いません。そのように言うとしたら、キリスト教を装ったカルトに近いと言えるでしょう。健全な教えを語る教会なら、そのように、不安や恐怖をあおって、信徒をコントロールするようなことは行いません。

 キリストの誕生を記念するクリスマスまで、あと2週間……こうしなきゃ救われないという「恐れ」ではなく、慈しみと愛によって、私たちを救ってくださる神への「信頼」を確かにしつつ、その日を準備していきましょう。「父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和があるように」アーメン。


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