不当な支配に従わせる?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ペトロの手紙一2:11〜25
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
ペトロの手紙一はキリスト教徒に対するローマ帝国の扱いが次第にきつくなってきた頃、書かれたものと言われています。当初、キリスト教はユダヤ教の一派と見なされ、ユダヤ教と同様の扱いを受けていました。ユダヤ教はローマ帝国が公認した宗教の一つだったので、体制に従ってさえいれば、キリスト教会もそこまでひどい扱いは受けませんでした。
むしろ、初期のキリスト教会は、ローマ帝国からよりも、同胞のユダヤ人から攻撃され、その迫害に苦しめられていました。律法の解釈や守り方をめぐって論争が起き、根っこを同じくする宗教でありながら、対立が激しくなっていったんです。実際、エルサレムの教会が、壊滅的な被害を受けた最初の迫害は、同胞のユダヤ人から起こされました。
しかし、ドミティアヌスの治世の頃には、キリスト教は、ユダヤ教と明確に異なるものと捉えられ、ローマ帝国に公認された宗教というより、ユダヤ教から出てきた異端というふうに理解されました。また、皇帝を神として崇め、皇帝に犠牲をささげることを命じられた際、キリスト教徒が拒否したため、ローマ帝国の迫害も、本格的に始まりました。
最初は、親戚や近所の人から攻撃を受けていた者が、自治体や行政からも抑圧を受けるようになっていく……流れとしてはそんな感じです。当時は、今のように「信教の自由」や「政教分離」の考え方はありません。ひどいときには、キリスト教徒であることを理由に、財産を没収されたり、役職を剥奪されたりしました。
つまり、キリスト教徒がこの世の権力に苦しめられ、虐げられているときに、ペトロの手紙一は執筆され、読まれるようになりました。自分たちを苦しめる体制が、できあがっているときに、これらの言葉が読まれました。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」「それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい……」
不思議ですよね? キリスト教は、ユダヤ教と同じく、神でないものを神として拝む、偶像崇拝を禁じています。救い主イエス・キリストを神の子と信じ、他の人間を神と等しいものとして礼拝することを拒否します。それなのに、自らを神として崇めるように強制する、ローマ皇帝に服従せよと命じられる……どうも納得いきません。
「すべて人間の立てた制度に従いなさい」というのも、キリスト教徒にとって、不利な制限を設けられたり、厳しい監視下に置かれたり、「正しい制度」と思えないものが実施されている世の中で、告げられてきた言葉です。むしろ、キリスト教徒なら、帝国が作った不当な制度に縛られるな、と言いたくなります。
ところが、手紙の著者は、「自由な人として生活しなさい」と言いながら、「人間の建てた制度に従いなさい」「皇帝であろうと……皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」と言ってきます。それじゃあ結局、権力者の人間に縛られており、自由な人として生活できていないじゃないか? と言いたくなります。
さらに、18節以下には、衝撃的な言葉も語られます。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」……いやいや、ちょっと待ってくださいよ。善良で寛大な主人と、無慈悲な主人を区別せず、その命令に従いなさいって、さすがに横暴じゃないですか?
まるで、パワハラに苦しんでいる部下が、黙って上司に従いなさいと促されているようです。なにせ、19節には、「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と言われています。不当な支配に従うことが、神の心に適っている……果たして、本当にそうなんでしょうか?
主人が召し使いに間違ったことをさせようとしたら、皇帝が市民に過ちを犯させる命令をしたら、それに抵抗することが、信仰者の務めに思えます。戦時中に、戦争への加担を拒否した信仰者や、ナチスからユダヤ人を守った先人たちもそうでしたよね? 「あいつを虐めろ」「彼らを騙せ」「この連中を殺してしまえ」……そんな主人には服従できない。
一方で、教会が権力に屈服し、自分たちの組織を維持するために、不当な支配へ、加担してきた歴史もあります。まさに、ペトロの手紙に出てきた、これらの言葉も引用されて、王に、国家に、服従して、農民を武力で抑え込んだり、戦闘機を買うための献金が集められたりしてきました。
改めて、それらの過去を反省しながら振り返ると、手紙の言葉をどのように受け取ることが求められるか、考え直さずにはいられません。ただ、一つ言えるのは、主人の言うこと、権力者の言うことに、無批判に従うよう求められているわけではないことです。どちらかと言うと、皇帝だから、総督だから、異教徒だからという理由で、彼らの命じたことや、彼らの作った制度に従わない態度を戒めています。
おそらく、手紙が送られた教会でも、権力者の言うこと、為すことには、とにかく従おうとしない人たちが居たんでしょう。「神への信仰以外に、自分たちを縛るものはない」と主張して、体制的なものに、ひたすら反抗してしまう人たちが居たんでしょう。社会の秩序を守るために、命じられたこと、定められたことさえ、従うことを拒否したら、単なる熱狂主義や反社会的集団になってしまいます。
中には、現代で言う「脱税」に当たることや「詐称」に当たることをして、活動していたキリスト者が、それを取り締まる権力者に、「自分は神だけに従うんだ」と言って、開き直っていることもあったかもしれません。正体や目的を隠した勧誘、不安や恐怖を煽った献金の強要、信者の子どもに対する人権侵害を理由に、取り締まりを受ける団体が、「信教の自由」を持ち出して、従おうとしない態度と似ています。
それに対し、神の子であるイエス様が、権力者である人々に、どのような態度を見せてきたか、聖書は思い起こさせます。イエス様は、当時の宗教指導者である祭司長や律法学者に対し、間違ったことは間違っていると訴えつつも、彼らが教える神殿で、会堂で、人々が礼拝すること、集まることに反抗はしませんでした。
むしろ、自分も神殿へ行って、会堂へ行って、一緒に、礼拝にあずかりました。ローマ皇帝に納める税金を求められたときも、異教徒が作った制度だからと、従うことを拒否したり、反抗したりはしませんでした。何なら、同胞のユダヤ人にとっては、目の敵であるローマの百人隊長をも、敬う態度を見せました。
また、イエス様は、自分が逮捕されたときも、裁判にかけられたときも、脱走したり、妨害したりしませんでした。「わたしは神の子だから、人の言うことに従う必要はない」と暴動を起こしたり、権力者に武力で反抗したりはしませんでした。それは、一見すると、権力に対する「屈服」に見えたかもしれません。神よりも人間の掟を優先したように見えたかもしれません。
しかし、イエス様は、権力に屈服して、不当な苦しみを受けたのではなく、自分が受ける傷によって、全ての人が、正しく生きられるように、神の国へ迎えられるように、自ら苦しみを受けていきました。「神の僕として生きる」ということは、人間の定めた掟や人間の言うことを蔑ろにすることではなく、全ての人を敬い、愛する態度のことなんです。
権力への抵抗は、権力者の言うことに、耳を貸さないことではありません。神の教えに従うことは、人間の立てた制度を、無視することではありません。私たちは、互いを敬い、互いを愛し、新しく関係を築いていくように、キリストを模範として歩んでいくことが求められています。共に、イエス様の足跡に続きましょう。
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