教会と平和を考える【コラム】
《はじめに》
*華陽教会の機関紙『ぶどうの枝』に掲載した巻頭言の原稿です。購入しなくても全文読めます。
《コラム「教会と平和を考える」》
今年度、私のいる教会では『これからの教会を考える』というテーマで、使徒言行録26:16の「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」を年間聖句にしてきました。
この言葉は、キリスト教徒を処刑するため、老若男女問わず捕まえていた元迫害者の使徒パウロが、復活したキリストの幻と初めて出会ったときに呼びかけられた言葉です。パウロとイエス様の出会いは衝撃的なやりとりから始まります。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」天からの光に照らされて、呼びかけられたパウロは尋ねます。
主よ、あなたはどなたですか? 声の主は、間髪入れずに答えます。わたしは、あなたが迫害しているイエスである! 普通、この後に続くのは「よくも私の仲間を虐めてくれたな」「よくも私を信じてついてきた人を迫害したな」という恨み言だと思います。「今度はお前を懲らしめてやる」という復讐の言葉が予想されます。
ところが、自分の愛する人々を散々痛めつけてきた相手に対し、神の子イエス・キリストはこう語ります。「起き上がれ。自分の足で立て」まるで、仲間に対する応援です。昔から知っている友人に、家族に、励ましを送るような言葉です。イエス様は、ついさっきまで縄に手をかけ、仲間を捕らえようとしていた敵に向かってこう言います。
「わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」自分を否定し、自分の仲間を、愛する人たちを、傷つけてきた人間に「私の証人となってくれ」と頼み始めます。「私と出会ったことを人々に伝えてくれ」と言うんです。
このときのパウロは、イエス様に対し、神様に対し、自分が痛めつけてきた信徒に対し、謝罪や悔い改めは、まだ何もしていません。自分の罪を認めることも、過ちを告白することも、赦してほしいと願うことも、何一つ実行していません。そんな相手に、イエス様は開口一番「あなたを奉仕者、また証人にする」と言ってきます。
普通、許されないことですよね? 悔い改めが先でしょう? 罪を認める方が先でしょう? 謝るのが先でしょう? 多くのキリスト教徒が殺されたのに、捕まえられて、家族と切り離されたのに、まだ何も謝ってない、まだ何も償ってない人間に、なぜ自分の弟子となるように、仲間の一人に加わるように願うのか?
当然の疑問が湧いてきます。実際、この後、パウロを受け入れるか否かで、教会の人たちは割れていきます。「こいつは迫害者じゃないか」「俺の家族を捕まえた」「私の夫を連れ去った」「今更仲間に迎えられるか」「今度は私たちが捕まえよう」パウロを弟子にすれば、群れの中に受け入れれば、教会が割れていくのは、目に見えています。
にもかかわらず、イエス様は、この問題ある人物を最初から受け入れるつもりで、教会の中へ導きました。争いが、議論が、分裂がもたらされることを知りながら、パウロを自分の弟子として送り出しました。教会にいた人々は、彼が来たことで、平和がもたらされたというより、争いがもたらされたと思ったでしょう。
2022年は、世界のあちこちで戦争や紛争の話を耳にすることが続きました。少数民族に対する迫害や弾圧、戦場におけるむごい仕打ち、幼い子どもや罪のない市民が、次々と犠牲になっていくニュース……頭に思い浮かぶ解決方法は、だいたいシンプルな暴力です。暴れている敵を一掃すれば、暴君を暗殺してしまえば、あの国を叩きのめせば、平和がやってくるんじゃないかと考えます。
話し合いなんて無理だろう。和解を結ぶために、こちらが相手の言い分を聞こうとすれば、仲間から反発を受けるだろう。仲間たちの思いを汲んで、意見を押し通そうとすれば、相手はさらに攻撃的になるだろう。対話しようとすることで、相手を受け入れようとすることで、かえって新しい対立や課題が生まれていく。
けれども、初代教会は、そうやって平和を作ろうとしてきました。敵対していた者と和解し、共に神の国へ迎えられる仲間として、イエス様の教えと業を伝えていく群れになりました。何度もぶつかり、何度も分裂し、何度も話し合いを重ねて、一致できるところを探していきました。
おそらく、その渦中にいる人々は、自分たちのいる教会が平和だとは思っていなかったでしょう。パウロは受け入れられては殺されかけ、遠くへ逃げ延びては連れ戻され、平和な日々とは言い難い日常を送っていました。その周囲にいた人間も同じです。互いを理解するまで、受け入れるまで、衝突と分裂を繰り返しながら、和解の道を歩みました。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」マタイによる福音書10:34に出てくるイエス様の言葉は、確かにそうだと思わされます。イエス様の言葉は、ときに分裂をもたらします。受け入れる者と拒む者の間で、対立を生み出します。しかし、その衝突は、敵対は、和解に至るまでのプロセスです。
表面的には仲良くやっているように見えても、本当に言いたいこと、聞きたいことが共有できない仲間では、キリストの体として建てられた教会にはなりません。私たちが衝突を恐れ、語るべきことを語るべきときに、聞くべきことを聞くべきときに、行うべきことを行うべきときにしなければ、そこに、キリストの平和はもたらされません。
今、これからの教会を考えています。世界に対し、社会に対し、身近な人たちに対し、論争を恐れて、衝突を恐れて、言い出せなくなっていることと、誠実に向き合う使命が、私たちにはあるはずです。私たちはキリストの証人です。表面的な平和ではなく、キリストの剣によって砕かれた先にある平和を求めて、語る者であり、聞く者です。
改めて、敵対していたときでさえ、イエス様が私に告げられた、神の言葉を思い出しましょう。「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」あなたの足で立つときです。あなたの言葉で語るときです。
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