本当のやもめ?【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙5:1〜16
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「教会は家族のようでありなさい」……そのようなメッセージが、度々、牧会書簡から聞こえてきます。キリスト教会は、初期の頃から、同じ信仰を持つ者同士「兄弟」「姉妹」と呼んできました。それは、信仰者がキリストに連なる家族であることを思い出させ、互いに愛し合うためのキーワードにもなっていました。
ところが、現在、家族を取り巻く問題は、かなり複雑になっています。暴力を振るい、人格を否定してくる親を持つ子ども……反対に、子どもから罵倒され、暴力を振るわれている親……望んでいない結婚を、周りに強いられる女性……そういった人たちが、テモテへの手紙一5章を読んだとき、どんな感情を抱くのか、正直、怖くて聞けません。
「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」……このように勧められて、素直に従おうと思えるのは、父親との関係が、ある程度良かった人でしょう。少なくとも、父親から愛されている自覚のある、父親に愛情を抱ける人でしょう。でも、父親に愛情を抱けない人、父親に愛された記憶のない人は、どうしたらいいか分かりません。
「若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」……この勧めも、素直に受け入れられるのは、兄弟と、母親と、まともな関係が築けている一部の人に留まるでしょう。兄弟との関係が最悪な人、母親から虐待を受けていた人、姉妹に裏切られてきた人は、なかなか飲み込むことができません。
「やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです」……一般論としては、そうだと思います。ある程度、社会保障制度が充実した現在でも、夫を亡くした母親を、一人にしたまま放置することは、褒められた話ではありません。
公的な社会保障制度の欠けていた、古代社会では尚更です。やもめになった、未亡人になった母親を、子どもたちが世話しなければ、まともに生活することは、ほぼ不可能な環境でした。当然、自分の親が食べるに困り、着るのに困り、住むにも困った状況でいるのを、子どもたちが放置することは、人として欠けた行為になるでしょう。
けれども、親と関係を切りたい子どもの中には、関わることで、自分の人生を破壊されてきた人もいます。子どもの頃から、人格を否定され、歪んだ支配を受け続け、大人になって、やっと解放されたところで、今度はその世話を頼まれる……お金を無心され、家事を押し付けられ、それが当然のように振る舞われる。
いわゆる「宗教二世」の相談窓口では、そんな子どもたちの悲痛な叫びが繰り返し届けられています。親と縁を切りたい。でも、家族だから扶養の義務がある。誰かに相談しても、「あなたの親なんだから」という理由で、問答無用で助けるように促される。このままじゃ、心が、魂が、壊れてしまう。
特に、鋭く突き刺さるのは、8節に出てくる言葉です。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」……もし、この言葉を振りかざして、人生をぐちゃぐちゃにされてきた子どもたちへ、両親の世話を強要するなら、その人に対する人格否定へ、加担することになるでしょう。
相手を「兄弟」「姉妹」と思って接していくということは、その人が抱える家族の問題も他人事にしないということです。私の家族の問題じゃない、あなたの家族の問題です……と、その人の立場を、背景を、顧みないなら、結局、こちらの方が、相手を兄弟姉妹と思えていない、大事にしていないことになります。
私がこの人の兄弟で、この人の親が私の親なら、どんな言葉をかけるだろう? どんな向き合い方をするだろう? 兄弟の人生が壊されないように、親の生活を保障するには、どんな方法があるだろう? そうやって、一緒に調べていくことが、周りに頼っていくことが、本当の兄弟姉妹になっていく……ということじゃないかと思います。
一方で、援助を受けるやもめの方も、厳しい言葉が出てきました。「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」新共同訳ではこうなっていますが、原文通りに近い、聖書協会共同訳では「本当にやもめである人をやもめとして大事にしなさい」となっています。「本当のやもめでない」と見なされた人は、教会で援助を受けられなかったみたいです。
新共同訳が意訳したように「身寄りのないやもめ」こそが、教会で援助を受けられる「本当のやもめ」であり、身寄りがある場合は、原則、援助を受けられませんでした。しかし、親によっては、子どもから暴力を振るわれたり、過剰に自由を奪われたりして、身寄りのない方がマシだったかも……と思う人たちが出てきます。
身寄りはあるけれど、あそこで世話を受けることになれば、二度と教会に来させてもらえません……訪問も許してもらえません……そういう状況に悩むことは、教会にいれば、必ず出てくる問題でしょう。「身寄りのないやもめ」の定義も、律法主義のように、一様に当てはめればいいものではなく、状況によって、捉え直す必要があるでしょう。
実際、イエス様の母親であるマリアは、文字通り、身寄りのないやもめではありませんでした。早い段階で、夫ヨセフに関する記述が出てこなくなるため、既に、夫に先立たれていた可能性はありますが、イエス様の兄弟たちが生きていました。にもかかわらず、イエス様は十字架上で、弟子のヨハネに、母マリアの世話を託します。
単に、身寄りがあるかないかで、本当にやもめである人か、世話を受けてもいい人か、杓子定規に決められたわけでないことは、想像に難くありません。現代でも、家族全員が信仰を持っていることは珍しいように、初代教会でも、信仰を持った家族が、信仰を拒絶した家族から、縁を切られ、追い出されてしまったケースがあったでしょう。
おそらく、身寄りはあるけれど、家族は頼れないというやもめたちが、一定数いたはずです。その者たちも、一様に、身寄りがあるかないかで、教会の世話を受けられるか受けられないかが決められてしまったとは思えません。むしろ、家族の世話に無頓着な信者に対し、まずは自分の家族を顧みているか、振り返らせる言葉として受けとめるべきです。
とはいえ、9節以下には、よりドキッとさせられる規定が出てきます。「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、良い行いによって認められている人でなければなりません」……これでは、良い行いをしてきたと認められなかった未亡人は、援助を受けられないことになります。
また、やもめの条件には「子供を育て上げたとか、旅人をもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善行に励んだ者でなければなりません」とも続きます。一見、子どもを持てなかった女性は、援助を受けられる、本当のやもめとして認められない……というふうに読めてしまいます。
ただし、ここで言う「子供を育て上げた」という言葉は、自分自身の子どもを育てることではなく、むしろ、一般的に子どもの面倒を見ること、特に、両親を亡くした子どもたちの世話をすることを指しています。子どもが苦手な人にとっては、ハードルが高く感じるかもしれませんが、面倒を見るというのは、何も、直接子どもたちと触れ合うだけではありません。
一昔前、色んな教区の婦人会でも、子どもたちの布おむつを縫ったり、学校で使う雑巾を縫ったりして、地域の子どもたちへ貢献していたことがありました。教会におけるやもめの人たちは、単に、世話を受ける対象ではなく、様々な形で、頼られる存在でもあったことを思い出させます。
かつて、古代社会で、最も非生産的な、役に立たない存在として見なされていた人たちを、教会は「善い行い」の担い手として、頼れる存在として迎え、そのことを本人たちにも自覚するよう促していました。やもめの登録は、援助を受けたいという利己的な動機から濫用されるものではなく、「良い行い」の担い手として、神の民に迎えられたことを示すものでもありました。
どちらと言うと、修道女のような制度に近かったかもしれません。現に、年若いやもめなど、再婚の可能性がある女性は、やもめとして登録することができないことになっていました。再婚すれば、「前にした約束を破ったという非難を受けることになる」と書かれていますから、「残りの生涯を神様にささげ、キリストに仕えて暮らします」というような、何らかの誓約があったのかもしれません。
そして11節から挙げられる、若いやもめが陥りやすい状態は、実際のところ、やもめに限った話ではありません。「若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者の悪口の機会を一切与えないことです」という指示も、女性の役割を固定化する、時代錯誤的なものを感じますが、これも、そのまま、現代に適用することが正しいわけではありません。
3章では、監督の職や奉仕者の務めに就くことで、ステータスを得ようとする人たちへ警告の言葉が語られていました。5章でも、やもめの登録を受けることで、特典を得ようとする人たちへ、その期待がずれていることを告げています。むしろ、やもめの登録を受けた人たちが、単に、教会の財源を切り崩している者ではなく、楽をしている者ではなく、対等な姉妹として迎えた者たちであることを伝えています。
互いに愛し合うため、兄弟姉妹として、家族として支え合うため、教会がどのように、人と人との関係を築いていくか、現在も問われ続けています。安易に、聖書に書かれていることを、そのまま適用するのではなく、一つ一つの記述が、どのような背景で、何を求めて記されたのか、神様に問いかけながら、誠実な関係を築いていきたいと思います。
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