ここから先に行きなさい【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 出エジプト記14:15〜22、マタイによる福音書28:1〜10
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
十字架にかけられたイエス様が、墓に葬られたとき、マグダラのマリアともう一人のマリアは、夕暮れ時にもかかわらず、墓の方を向いて座っていました。辺りはどんどん暗くなります。今のように、電気があるわけでもありません。日が落ちたら、家へ帰れるかも分からないほど、真っ暗になる世界です。
そこに、女性2人が残ったまま、墓の方を向いて座っている……きっと、怖かったはずです。ただでさえ、仲間の弟子たちはとっくに逃げ出し、何かあったとき、守ってくれる男性は一人もいない状況です。しかも、墓場の目の前です。本来は、一刻も早くそこから抜け出し、家へ帰るのが普通です。
けれども、マグダラのマリアともう一人のマリアは、直ちに墓場を離れることができません。もう、イエス様は死んでいるのに、遺体も納められたのに、そこを発つことができません。イエス様の死を受け入れることができなかったんでしょうか? このまま離れるのを耐え難く感じていたんでしょうか?
それとも、イエス様が墓から出てくるのを待っていたんでしょうか? イエス様はかねてより、自分が必ずエルサレムへ行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている……と言っていました。ある娘が死んだのを、甦らせたこともありました。
もしかしたら、今にも墓穴の中で起き上がって、外に出てくるんじゃないか? 墓の方を向いていたら、その姿を見られるんじゃないか? そのように期待したのかもしれません。しかし、その日のうちに、イエス様が出てくることはありませんでした。マグダラのマリアともう一人のマリアは、一旦あきらめ、自分たちの家へ帰っていきます。
その間、同じく、イエス様の言葉を思い出した祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様の遺体がなくならないよう、墓に番兵をつけていました。イエス様の「三日後に復活する」という言葉が現実にならないよう、誰も墓に近づけないよう、見張りを立てて封印しました。
さて、イエス様が死んでから三日経ったとき、マグダラのマリアともう一人のマリアは再び墓を見に行きました。けれどもそれは、復活したイエス様と出会うためではありませんでした。2人は、十字架につけられて亡くなったイエス様が、墓に納められた遺体が、ちゃんとそこに残っているか、確かめに行ったんです。
もしかしたら、番兵たちと同じく、誰かがイエス様の遺体を盗み出し、持ち去っていないか不安になって、墓を見に行ったのかもしれません。けれども、2人が墓に到着すると、いきなり大きな地震が起こります。それは、主の天使が天から降って、墓穴の石をわきへ転がし、遺体の置いてあった場所を見られるようにしたためでした。
番兵たちは突然の出来事に震え上がり、顔面蒼白となって、死人のようになりました。一方、マグダラのマリアともう一人のマリアは、天使からこう言われます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
天使の言葉は、彼女たちが「今日イエス様は復活する」と思っていなかったことを裏付けます。そう、2人が探していたのは、約束どおり、三日後に復活したイエス様ではありません。十字架につけられて動かないままの、遺体のイエス様です。どこにいるのかはっきりしている、ここに来れば会えると分かっている、急に姿を消さないイエス様です。
たとえ動かなくなった遺体でも、ここに来れば会える……ここで、あの方を思い出せる……そんな慰めが欲しくてやって来ました。だからこそ、誰かが遺体を持ち去っていないか不安に思って、朝早く、明け方に、墓を見に行ったのかもしれません。ところが、天使は2人に、イエス様が姿を消したと知らせます。
「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」……そこには確かに、イエス様の遺体が置いてあるはずでした。しかし、納められたはずの遺体はなくなって、空っぽの墓が見えていました。多くの病人を癒し、奇跡を起こしては、急に人前からいなくなったイエス様が、ここでも姿を消されます。
マグダラのマリアともう一人のマリアは、もう、どこへ行ったらいいか分かりません。自分を慰めてくれるはずの、大切な方のお墓はなくなり、立ち止まる場所を見失います。もし、ここにイエス様の遺体があったら、2人は立ち止まったままだったでしょう。慰めを得ることに精一杯で、先へ進むことはなかったでしょう。
けれども、イエス様の遺体はなくなりました。復活して、どこかへ行ってしまいました。私たちも墓を後にし、イエス様を探しに、先へ行かなければなりません。そこで、天使は続けます。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
2人は、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去って、弟子たちへ知らせに行きました。その途中、復活したイエス様本人が行く手に現れ、彼女たちに声をかけます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
もし、この言葉がなかったら、弟子たちは2人の話を聞いても、ガリラヤへ行けなかったかもしれません……たとえ、約束どおり、イエス様が復活していても、自分たちは、そのイエス様を見捨てて逃げた人間です。約束の三日目が来ても、家の中に閉じこもって、墓を見に行くこともなかった人間です。もはや「弟子」とは言えません。
ところが、イエス様はそんな彼らを、今も「わたしの兄弟たち」と言われます。最初に彼らと出会った、ガリラヤで会おうと言われます。墓の前から動けない者、家の中から出られない者に「ここから先に行きなさい」と、出発する力を与え、新しい目的地を示します。「そこでわたしに会うことになる」と。
かつて、エジプトの軍に追いかけられ、目の前を海に阻まれて、先へ進むことができなくなった、イスラエルの民のように、マグダラのマリアや弟子たちも、イエス様の死を前に、先へ行けなくなっていました。この先へ行けるという希望を、イエス様に会えるという約束を、信じられなくなっていました。
しかし、神様は、立ち止まった者たちのため、海の中に道を開き、信じられない者たちのため、空っぽの墓を見せられます。単なる慰めに終わらず、「ここから先に行きなさい」「わたしについてきなさい」と、新たな使命と希望をもたらします。自分を疑う者にさえイエス様は新しく出会われます。
今日はこの後、新たに華陽教会に迎えられた方の「転入会式」を行います。さらにその後、みんなでパンと水をいただき、神の祝福を分かち合う「愛餐式」を行います。これらは今も、「わたしについてきなさい」「わたしの兄弟たち」と呼びかける、イエス様との出会いの場です。神の国の食卓へ、招いておられるしるしです。
もし、自分が受け入れられるか、自信が持てないなら……神の祝福を受け取っていいか、確信が持てないなら……「恐れることはない」と言われた、イエス様の言葉を思い出しなさい。あの日、ガリラヤへ行くよう命じられたイエス様は、先にここへ来ていました。先にあなたを待っていました。だから、安心して食卓に着き、パンと水を受け取りなさい。
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