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キリストの兵士?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙二1:15~2:7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。


《メッセージ》

 テモテへの手紙は、2世紀から3世紀頃に書かれた手紙と言われていますが、2世代、3世代前のパウロが生きていた頃に、教会の中でどのようなことが起こったか、弟子たちの手によって記されています。「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます」

 けっこう具体的な名前が出てきましたね。フィゲロについては不明ですが、ヘルモゲネスは、200年頃に記された『パウロとテクラの行伝』という書物に出てきます。どうやらパウロの味方だった人が、最も困難な時期に裏切ってしまった出来事が背景になっているようです。

 手紙の4章には、パウロが敵に捕まって、裁判にかけられてしまったとき、アジア州のキリスト者が、誰も助けてくれなかったことも言及されています。初代教会のキリスト者は、信仰に熱く、持ち物を共有し、裕福な者も貧しい者も、助け合っていたことが、使徒言行録2章に出てきますが、その状態は、長く続かなかったようです。

 ヘブライ語を話すユダヤ人と、ギリシア語を話すユダヤ人の間で、日々の分配に格差がつけられ、ユダヤ人と異邦人の間で、生活スタイルの押し付けが起こり、それらを解消しようとしたパウロにも、怒りやヘイトが向けられました。エルサレムの使徒会議で、異邦人に対し、ユダヤ人の食物規定や、細かな掟を強制するのは止めましょうと決めたのに、地方の教会では、なかなかそれらの指導が受け入れられませんでした。

 そのせいか、パウロやパウロが派遣した宣教者の指導をまともに聞かず、教師としてふさわしいか、自分たちの価値観で判断し、品定めするような会衆が、それぞれの教会にいたようです。もちろん、教師の言うことを鵜呑みにするのは間違っていますが、あからさまな好みや主観で教師を値踏みし、態度を変えるのも間違っています。

 中には、教師の言うことを蔑ろにし、適切な手順を踏まないで、教会の方針を決定したり、誰かを勝手に要職につける人たちもいたのでしょう。テモテへの手紙一に出てきた、監督や奉仕者の資格についての言及は、選挙や重要な方針が、何かに基づいてではなく、声の大きい人によって、好き勝手決められる傾向があったからかもしれません。

 そんな中、テモテへの手紙ニの文書には、会衆に対し、「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」というパウロの言葉が、再び弟子たちによって記されます。優しく、穏やかで、平和なイメージのあるイエス様が、「兵士」という言葉と並んでいるのを目にすると、ちょっと抵抗を覚えるかもしれません。

 けれども、フィリピの信徒への手紙や、フィレモンへの手紙など、パウロ自身が書いたとされる手紙には、同労者を「兵士」にたとえる表現が、好んで用いられています。兵士と言えば、それらの集まった「軍隊」が想起されるので、宗教団体でこの表現を使うのはあまり勧められません。

 実際、自分が派遣する弟子たちや、教会の会衆に向けて「立派な兵士」のようになることを求めている発言は、武装する宗教カルトを思い起こさせ、ちょっと怯んでしまいますよね? もちろん、ここで言われている「キリスト・イエスの立派な兵士」というのは、物理的に武装したり、リーダーや団体にたてつくものを仕留めようとする兵士のことではありません。

 信仰の戦いを立派に戦い抜くという意味での「兵士」であって、人間同士の争いを武力で解決することを「善」とした表現ではないんです。また、「兵役に服する者」「競技に参加する者」「農夫」という表現と、一緒に並んでいるように、「それぞれの務めや働きに対し。正当な報酬が与えられるべき同労者」という点が強調された表現です。

 おそらく、2世紀から3世紀頃は、まだ、教会専従者に対する「謝儀」や「手当て」といった報酬制度が整ってはいませんでした。自分たちの気に入らない教師に対しては報酬を与えず、言うことを聞いてくれる教師に対しては報酬を出す……という不健全な運営が各地の教会で見られたんでしょう。

 そのため、それぞれの教会に派遣される指導者、教師、宣教者は、命をかけてキリストに従う同労者であり、自分たちの好みや主観で彼らを値踏みし、蔑ろにすることは、非常に不誠実な態度であると、伝えたかったんだと思います。実は、教師の報酬に関する記述は、パウロの手紙に度々出てくる話題であり、非常に難しい問題でした。

 悪戯に「隠された教えを与える」と言って、不当な報酬を得ようとする指導者が出てくる一方、会衆の好みや無関心で、正当な報酬が得られない指導者もおり、金銭に関しては初期の頃から色んな課題がありました。ある注解書には「金銭に関して無関心なように見えて、実は無責任なのが最も悪い」と書かれており、本当にそうだなと思わされます。

 キリスト教会は、形式的な掟の遵守に支配され、神への愛と人への愛を蔑ろにしていた反省から、律法を字義通り形式的に守ろうとする態度から解放することを目指しました。一方で、律法をはじめとする様々な掟に従うこと、適切な手順や手続きに従うことを拒否する態度も現れ始め、極端な傾向が何度も発生していました。

 その一つ一つに対処するため、パウロや彼の弟子たちは、教会で出てきた問題を、正直に、伏せずに、隠さずに手紙にしたため、後世の私たちへ注意と励ましを送りました。今私たちが直面する教会の課題も、恥ずかしいものとして見ないように、考えないようにするのではなく、彼らにならって、誠実に向き合っていきたいと思います。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。