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神の霊の導き【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙二3:10〜17
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
華陽教会の属する日本基督教団の信仰告白では、冒頭にこんな言葉が出て来ます。「我は信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の依るべき唯一の聖典なり。」普段、文語で唱えているので、ちょっと分かりにくいかもしれません。口語訳では次のようになります。
「私たちは信じて、告白します。旧新約聖書は神の霊感によってでき、キリストをあかしし、福音の真理を示すもので、教会のよらなければならないただ一つの正典であります。」簡単に言うと「私たちは、聖書を神の言葉として受けとめる」という意味です。単なる人間が書いた言葉ではなく、神の霊に導かれて書かれた言葉が聖書である。
テモテへの手紙でも、これと重なる記述が出てきました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」……宗教改革500周年を記念して作られた聖書協会共同訳では、「神の霊の導き」が「神の霊感を受けて」となっており、信仰告白の文書に近いです。神の霊の導きのもと、神の霊感を受けて書かれた……聖書が「聖なる書物」である所以です。
もちろん、テモテへの手紙が書かれた時点では、まだ新約聖書はできておらず、旧約聖書しかありませんでした。ですから、ここに出てくる「聖書」とは、旧約聖書のことでしょう。けれども、テモテへの手紙を含む27巻の新約聖書も、神の霊に導かれ、キリストの教えと業を証しする「神の言葉」「聖書」として、読まれていくようになりました。
しかし、現代の視点で聖書を読むと、とても「神の言葉」とは思えないような、差別と偏見に溢れた記述や、歴史的に間違っている記述、科学と相反する記述がしばしば出てきます。テモテへの手紙だけでも、けっこう問題を感じる箇所がありましたよね? 女性に対する偏見、奴隷制度に関する記述、排他的な物言いなど、相当「人間的」でした。
さらに、たった今読んだテモテへの手紙ニ3章の後半にも、パウロが書いたと言われる他の手紙や、パウロの半生が記された使徒言行録に照らしてみると、矛盾する記述が出てきます。「あなた(テモテ)は、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした」……さて、皆さんは、違和感に気づいたでしょうか?
実は、アンティオキア、イコニオン、リストラで、パウロが迫害や苦難を受けたのは、彼の第一回宣教旅行の途上であったと伝えられ、使徒言行録13章および14章に出てきます。このとき、テモテはまだ、パウロに付き従ってはいませんでした。テモテがパウロについてくるのは、これらの旅が終わった後、使徒言行録16章になってからです。
したがって、手紙の著者からテモテに対して告げられているこの言葉を、パウロ自身に帰するのは、かなり難しいと言われています。何度か話していますが、この手紙は、パウロが亡くなったあと、2世代、3世代後の弟子たちが、彼の教えを手紙の形で書き表したと考えられ、書かれていることが、そのまま事実というわけではありませんでした。
このように、テモテへの手紙をはじめ、他の新約の文書や、旧約聖書に出てくる記述も度々、歴史的にはあり得ないこと、科学と一致しないこと、倫理的に問題のあることが出てきます。そうなると、16節の言葉は思ったよりも厄介です。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」
いやいや、歴史的に間違った記述を用いて人を教えるって、果たして正しいことなんだろうか? 家父長制や男性中心主義に基づく、差別や偏見に溢れた記述も、人を教え、戒める言葉として、用いなければなければならないんだろうか? かえって、間違った方向へ矯正されてしまわないだろうか?
だからと言って、納得できない聖書箇所は「神の言葉じゃありません」なんて言い始めたら、人間の勝手な解釈に陥らないだろうか?……さあ、泥沼になってきました。聖書を「神の言葉」として受けとめる、聖書は「神の霊感によって書かれている」と受けとめるって、どう捉えたらいいんでしょう? これっ、て昔から問題になってきたことで、色んな考えが生まれてきました。今も、あちこちで議論になっています。
たとえば、聖書の霊感は、救いや信仰の事柄だけでなく、科学や歴史の領域にも及んでいる(科学的にも歴史的にも正しいんだ)という「十全霊感説」を取る人もいれば、聖書の霊感は霊的・宗教的な事柄に関してのみ及んでいて、科学や歴史に関しては及んでいない(科学的歴史的正しさとは一致しない)という「部分的霊感説」を取る人もいます。
また、聖書は誤りのある人間のことばによって書かれた「神の言葉の証言」であり、聖霊なる神が説教者を通して語られることによって神のことばになるという「断続的神言語化説」という受けとめ方をする人もいます。もちろんこれも、説経者が間違った語り方をすれば、神の言葉になるどころか、悪魔の言葉になりかねないので、困りますよね?
聖書を読むとき、間違ったことが書かれているかもしれない、神の言葉としてそのまま受けとめるには問題があるかもしれない……なんて考えながら読んでいくのは、皆さんも嫌かもしれません。全知全能の神様が与えた書物なんだから、間違ったことなんて書かれていない、間違ったことなんて書かせていない、と思いたくなるかもしれません。
でも、神の霊感を受けるって、私たちが何一つ間違えないように、ロボットを操作するように、導かれることなんでしょうか? 人間の意思を全く無視して、神様に都合の良いように、完璧な思考や完璧な行動をさせられることなんでしょうか?……そうではないと思いますよね?
神の霊の導きは、私たち人間の意思を塗りつぶすような、無理やり手足を動かすような非人格的な導きではありません。むしろ、私たちの経験や背景や感情から、滲み出てくる言葉や行動を尊重しながら、ご自分の言葉を伝えさせます。不器用な私たちに、失敗する私たちに、間違える私たちに、「わたしはあなたを遣わす」と送り出してくださいます。
神の霊感を受けたアブラハムは、失敗しない人生ではありませんでした。神の霊感を受けたモーセは、間違えない人生ではありませんでした。神の霊感を受けたイエス様の弟子たちは、背かない人生ではありませんでした。神の霊感を受けたパウロは、挫けない人生ではありませんでした。しかし、彼らの軌跡は、私たちに希望と励ましを与えます。
神の霊が共に居続け、矯正し続け、新しく立たせ続けていったことを、問題を抱える、不器用な人々の証言から、滲み出てくる告白から、今に至るまで知らされているからです。ですから、私からも証言します。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです……」アーメン。
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