出て行くように頼まれる【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録16:35〜40
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
キリスト教を伝えようとした宣教師が、その土地の支配層から怒りを買って、無理やり町から追い出される。あいつは余所者だ、外国人だ、我々と相容れない教えを広めようとしている。そう言って、石を投げ、棒で叩き、半殺しにして追い立てる。昔はよくある光景でした。日本でも石を投げられ、火をつけられ、追いやられていく牧師がいました。
しかし、フィリピで捕らえられ、投獄され、翌朝、釈放されたパウロたちは、ちょっと様子が違います。一晩、牢に閉じ込められ、「もう十分懲りただろう。この町で宣教するのは諦めて、さっさと逃亡するがいい」というふうに、見下しを受けて追い出されたんじゃありません。
むしろ、パウロとシラスは、高官直々に連れ出され、町から出ていくよう「頼み込まれて」出ていきます。昨日まで、鍵のかかった部屋の中で、足かせまではめられていた人間とは、思えないような対応です。「牢に入れて悪かった、鞭を打って申し訳ない。どうか、ここでのことは水に流して、町から出ていってくれないか?」
いったい何が起こったんでしょう? まるで、水戸黄門が印籠を取り出した瞬間のように、高官たちは急に態度を改めます。それは、パウロの一言がきっかけでした。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか」
何だって? ローマ帝国の市民権を持っている? 中東から来た外国人だと思っていたら、フィリピの町を支配する帝国の一般市民だって? 何で最初に言わないんだ? 何で捕まったとき、鞭打たれたとき、投獄されたときに言わないんだ? これじゃ、捕まえた我々の方が、裁判にかけられてしまうじゃないか!
おそらく、高官たちは「はめられた」と思ったんじゃないでしょうか? きっと何かを要求される。この町でユダヤ人の会堂を建てさせろとか、自由に宣教をさせてくれとか、厄介な訴えが起こされる。その前に、何とか宥めて、町を出ていってもらわなければ! 我々の不手際を上司へ報告される前に、早いとこ蓋をしなければ!
さあ、パウロとシラスのターンです。ここで粘れば、フィリピの宣教に有利な条件を取り付けられます。ところが2人は、あっさり彼らの謝罪を受け入れて、滞在していたリディアの家に別れを告げ、次の町へと出発します。祈りの場所は町の外、門の外側にあるままで、リディアたちは引き続き、外で礼拝するしかありません。教会はまだ建ちません。
読者の私たちも拍子抜けです。いやいや、ここは引くんじゃなくて、もっと強く出ましょうよ? 同じ牢に居た囚人たちは言うことを聞くようになったんだし、最初は敵だった看守と家族も、今や洗礼を受けて仲間だし、高官たちも焦ってペコペコしているんだから教会の一つや二つ、建てあげてから行きましょうよ。
そもそも、謝罪を受けて済ますなら、最初から抵抗すればよかったんです。「ローマの市民権を持っているんで、ちゃんと裁判にかけてください」……そう言えば、彼らも手続きを無視した不当な過ちを犯すことはなかったわけです。パウロさん、鞭打ちと監禁のリスクを負ったのは、彼らと交渉して、宣教を有利にするためじゃなかったんですか?
思わず、詰め寄って聞きたくなります。しかし、結論から言うと、パウロがシラスと一緒に、大人しく投獄されたのは、フィリピの高官と交渉するためでも、圧をかけて教会を建てさせるためでもありません。むしろ、見えない教会を建てるという働きは、既に達成していたんです。どこに建ったか?
それは、2人が投獄された場所、真夜中に賛美の歌をうたって、神様に祈って、囚人たちが聞き入った場所。牢から逃げ出すことを考えていた者たちが、自ら留まるようになった場所。彼らの姿を見て悔い改め、看守が洗礼を受けた場所。ここが、教会でなくて何なのでしょう? パウロたちが囚われた場所こそ、神様が教会を建てさせた場所でした。
「教会を建てる」とはどういうことか改めて考えさせられます。どこに建てるのか、誰を集めるのか、こちらの希望と想定を、大きく超えた出来事が起こります。パウロだって、もともと囚人を集めて礼拝する気はなかったでしょう。監獄で賛美と祈りをささげる予定もなかったでしょう。自分を閉じ込めた看守に洗礼を授けるつもりもなかったでしょう。
しかし、ここが教会の建った場所です。ここがキリストの体になった場所です。きっと最初は、そこを宣教地だとは思いません。礼拝用の建物はなく、ジロジロと監視される場所で、大幅に自由を制限された土地。もし、意図せずそこへ留まることになったら、宣教を邪魔されたと思うのが普通です。しかし、神様はそこを宣教地にされます。
よくやって来た。ここがあなたの礼拝する場所だ。ここが教会の建つ場所だ。誰もが期待しなかった場所に、期待しなかった人たちが集まり、仲間になると思ってもみない人たちが、私たちの輪に加わります。追いやられないことが、追い出されないことが、宣教の成功ではありません。追いやられた場所が、追いやられた人たちが「教会」になります。
コロナ禍に入ったとき、私たちも、期待した場所で、期待した人たちと集まれない日々を過ごしました。いつもの教会で、いつもの時間に、いつも会う人たちと礼拝できない。画面の前で、お昼や深夜に配信を開き、同居している誰かの横で、ひっそり祈りを合わせていた……そんな人たちを知っています。
今なお、画面の前で、他に信徒のいないところで、日曜の朝じゃない時間に、心を神様へ向ける人たち。教会へ行けない、礼拝ができない、伝道していない……そう思っている信仰者。あなたのいる場所、あなたが囚われている場所、あなたが追いやられた場所は、神様が今、教会を建てているところなんです。
伝道者を養成する機関の一つ、関西学院大学神学部でも、数年間、対面授業を制限され、行きたい場所へ行けず、集まりたい仲間と集まれなかった学生たちが、今日まで学びを続けてきました。その一人が、今週から、夏期派遣実習生として、華陽教会へ来てくれています。
伝道するために、牧師になるために、彼が歩んできた道は、おそらく当初の予定と大きく代わり、道を阻まれたと感じることがあったかもしれません。同期の中にも、学びたいことが学べず、出会いたい人と出会えず、立ち止まらざるを得なかった、外へ追いやられてしまった仲間が、いたかもしれません。
しかし実は、彼ら一人一人が立ち止まった場所、追いやられた場所、あるいは閉じ込められた場所も、見えない教会のあるところ、新しい風が吹くところ、キリストの証人として、新たに立てられるところでもあるんです。ストレートに、行きたいところ、予定しているところへ行く人が、伝道者ではありません。
追い出され、足かせをはめられ、天を仰いだ自分の姿、仲間の姿を見ているのなら、あなたたちはまさに伝道者です。今いる場所は、神から離れる道ではなく、キリストの後を追う道です。安心して行きなさい。兄弟たちに会って、励ましなさい。キリストの平和の使者として行きなさい。アーメン。
ここから先は
¥ 100
柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。