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何かを得たい【日曜礼拝】


《はじめに》

小牧教会の交換講壇礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 フィリピの信徒への手紙3:7〜21

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 キリスト教を信じれば、何を得ることができるでしょうか? どんな困難にも挫けない、強い心を得られるでしょうか? 不安や恐怖に負けることなく、最後まで貫き通す信念を得られるでしょうか? 怒りや悲しみに呑み込まれず、落ち着いて物事を見つめられる、冷静さを得られるでしょうか?

 正直に言うと、私はどれも自信がありません。キリスト教を信じることで、それらを得られた人よりも、得られなかった人の方が、たくさん思い浮かぶからです。何なら、牧師をしている私自身も、強い心や、確かな信念や、冷静さを得られているとは言えない日々が目の前に転がっています。

 聖書に出てくる人々はどうでしょうか? 旧約聖書には、神の言葉を直接聞いた族長や預言者が出てきました。神様に選ばれ、神様を信じて行動した人が出てきました。けれども、彼らはどんな困難にも挫けない、強い心を得られたでしょうか? いつだって諦めない心を持てたでしょうか? 確かに、神様を信じた人々は多くの困難を乗り越えました。

 自分たちを奴隷にしていた国から脱出し、追い迫る敵に打ち勝って、遥かに数の多い軍隊にも負けませんでした。しかしそれは、彼らが挫けなかったからではありません。支配者の圧力に心が挫け、「大人しく奴隷でいる方がマシだった」と叫んだこともありました。追いかけてくる軍勢を前に、立ち向かう勇気を出せたわけでもありませんでした。

 少人数でも敵に勝てると、どれだけ神様に言われても、「本当ですか?」「本当にそうだという保証をください」と何度もしるしを求めました。神様に選ばれ、神様の声を聞き、神様を信じた多くの人は、挫けなかったから、困難を乗り越えたのではなく、挫けても、神様が励まし続けたから、困難を乗り越えることができたんです。

 新約聖書に出てくる、イエス様の弟子たちはどうでしょうか? 彼らは、神の子である救い主から直接選ばれ、直接話を聞いて、信じるようになりました。悪霊を追い出し、病を癒す力も与えられました。しかし、弟子たちは、不安や恐怖に負けることなく最後まで貫き通す信念を得られたでしょうか? どこまでも従い続ける力を持てたでしょうか?

 確かに、イエス様を信じた弟子たちは、仕事も財産も捨てて、イエス様について行きました。下着と杖以外には荷物を持たず、あちこちの村へ伝道しました。しかしそれは、彼らが不安や恐怖に負けなかったからではありません。湖の上で嵐に遭えば、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか?」とイエス様に泣きつきました。

 イエス様が、自分は十字架につけられて殺され、三日目に復活することを予告すると、受け入れられず、「そんなことがあってはなりません」と言いました。二度目、三度目の予告をされても、どういう意味か恐ろしくなって、それ以上聞けませんでした。イエス様に対し「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた後も、復活は信じませんでした。

 さらに、弟子たちは、「あなたのためなら命を捨てます」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とイエス様に言いますが、イエス様が敵に捕まると、自分たちも捕まることを恐れ、見捨てて逃げてしまいました。

 こっそりイエス様のあとをつけていったペトロも、周囲の人間に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と疑われると、「違う」「そんな人知らない」と否定してしまい、最後までついていくことができませんでした。何なら、イエス様が三度も予告した復活の日、死んでから三日目になったときも、家の扉に鍵をかけ、締め出していました。

 彼らが甦ったイエス様に再会し、迫害に遭っても、神の国の教えを宣べ伝えるようになったのは、不安や恐怖に負けなかったからではありません。不安や恐怖に負けても、イエス様が新しく出会いに来て、もう一度「わたしに従いなさい」と呼びかけてくださったからです。イエス様が、自分について来れるまで、付き合い続けてくださったからです。

 それでは、フィリピの信徒への手紙を残した、宣教者パウロはどうでしょうか? 彼は復活したイエス様の幻と会って、天からイエス様の声を聞いて、イエス様を神の子と信じるようになりました。では、パウロは、怒りや悲しみに呑み込まれず、落ち着いて物事を見つめることができたんでしょうか? 冷静さを得ることができたんでしょうか?

 確かに、パウロは多くの反対に遭いながらも、異邦人への救いを伝え、世界各地に教会を建てていきました。ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになって、忍耐強く、イエス様の教えと業を伝えていきました。

 しかしそれは、パウロが怒りや悲しみに呑み込まれなかったからではありません。彼はもともと、律法を守ることに熱心なあまり、律法によらない救いを宣べ伝える教会に、激しい迫害を加えていました。イエス様の幻と会って、間違いに気づかされた後、彼は3日間、食べることも飲むこともしませんでした。落ち着きや冷静さはありませんでした。

 また、他の弟子たちと会って、一緒に宣教するようになってからも、異邦人に対する態度や、一度自分たちを離れた仲間のことで争いになり、別れて宣教に行ったこともありました。さらに、パウロの書いた手紙には、彼に反対する者たちへの激しい憎悪が綴られていることもあり、フィリピの信徒への手紙にも、一部、その形跡が見られます。

 「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」……実は、反対者への非難としては優しい方で、中には誹謗中傷としか取れないような、過激な表現で責めている文書も出てきます。パウロもまた、聖人君子というわけじゃなく、情緒に振り回される人間でした。

 彼が多くの人々に、ユダヤ人にも異邦人にも、救いを伝えることができたのは、怒りや悲しみに呑み込まれなかったからではありません。怒りや悲しみに呑み込まれても、そこから解放してくださるイエス様の呼びかけがあったからです。かつて、キリストの反対者であった自分自身を、弟子として迎えてくださった方が、何度も呼びかけていたからです。

 「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」……パウロの言葉は真実です。彼は、自分の正しさにしがみついて、自分の努力にしがみついて、神の国から遠く離れ、滅びへ向かっていたにもかかわらず、キリストに捕らえられました。

 彼自身は、キリストから離れる道を歩んでいたのに、キリストの方から現れて、呼びかけて、救いにあずかるよう掴んでくださいました。彼自身が、得ようと思っていなかった信仰が与えられ、得ようと思っていなかった気づきがもたらされ、得ようと思っていなかった仲間が与えられました。かつて迫害していた教会が、彼を迎える家になりました。

 「何かを得たい」と思って、教会の扉を叩く人は、ここへ来てから色んな意味で裏切られます。優しい心が与えられるかと思ったら、優しくなれない自分の冷たさを日々見せられる。悪に立ち向かう勇気が得られるかと思ったら、立ち向かえない自分の弱さを何度も自覚させられる。

 ぶれない正しさを持てるかと思ったら、正解の見えない自分の愚かさを突きつけられる。芯のある立派な人格者になりたいのに、祈っても、祈っても、なかなか、それらは得られません。でも、確かに与えられているんです。目標を目指して、ひたすら走る私たちに、どこまでも付き合い続けてくださる、イエス様との関係が、揺るぎなく存在しています。

 揺れ動く弟子たちがそうだったように、信仰の先人たちがそうだったように、私たちも神様から、イエス様から遠のくことはできません。この方は私たちのために、何度も新しく出会い、何度も私たちを捕らえ、新しい命を得られるまで、永遠の命に至るまで、共に歩んで、共に走って、共に進んでくださいます。

 「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリピ4:1)……アーメン。

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