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結ばれてほしいけど【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 サムエル記上1:19〜28、ヨハネの手紙一2:22〜29

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 子どもたちに教会へ来てほしい、洗礼を受けてほしい、同じ信仰を持ってほしいと願ったことのある人は、教会を見渡せば、いくらでもいるでしょう。私の親も、「教会へ行きなさい」「洗礼を受けなさい」と強制したことは、一度もありませんでしたが、来てほしいんだな、受けてほしいんだな、という思いは、ヒシヒシと伝わりながら育ちました。

 そりゃそうです。神様を信じて救われた、支えられてきた人なら、我が子にも、信じて救われてほしい、この支えを知ってほしいと、願って当然だからです。共に信仰を与えられ、永遠の命を受けて、神の国、天の国へ迎えられるよう、うちの子も教会に結ばれますように……そう願わない人はいないでしょう。

 でも、信仰を押し付けてしまったら、かえって暴力になってしまう。本人の選択によってではなく、家族の支配によって、無理やり教会へ来させたら、異邦人に割礼を強要し、「偽教師」と呼ばれたキリスト者と、変わらない過ちに陥るでしょう。イエス様が弟子たちに命じた洗礼は、力や恐怖によってではなく、愛によって導くものだからです。

 そう、教会に結ばれてほしいけど、なかなかストレートにいかないのが、親の悩みかもしれません。反対に、子どもの方が洗礼を受け、親を教会へ誘いたいけど、最初から拒絶されてしまう、どう誘ったらいいか分からない……という人たちもいるでしょう。焦らずゆっくり向き合おうと思っても、聖書から、胸を刺すような言葉が聞こえてきます。

 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」……救い主イエス・キリストも、父なる神の存在も認めない、教会へ来ない我が子のことを思い出す。そうなったのは、自分のせいかもしれないのに、その子が「反キリスト」と言われたら、辛くて仕方ありません。

 「御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」そう命じられているけれど、キリストの体である教会に、留まっていない子どもたち、イエス様を神の子と告白してない我が子のことは「仲間じゃない」と言われるんだろうか? 「反キリスト」と言われるほど、憎まれているんだろうか?

 もちろん、そんな極端な話じゃありません。そもそも、子どもたちって素直なことより反抗することの方が多いですよね? 小さい頃は、礼拝の間じっと静かにしていることもできません。我慢できなくなってふざけたり、「外へ行きたい」と泣き出したり、一緒に座っている大人たちに、私もたくさん迷惑をかけました。

 きっと、イエス様のもとへ連れてこられた子どもたちも、ふざけて服を引っ張ったり、目の前を走り回ったり、伸ばされた手を払ったり、すごかっただろうなと思うんです。今みたいに、幼稚園も学校もありません。聖書の勉強が嫌いだった子もいたでしょう。知らないおじさんに手を置かれたら、泣き出す子だっていたでしょう。

 せっかく、我が子を祝福してもらおうと、イエス様のもとへ連れてきたのに、「嫌だ!」「怖い!」「帰りたい!」と駄々をこねる子どもだって、相当いたと思うんです。弟子たちはそんな様子を見て、子どもを連れてきた人々を叱ってしまいます。けれど、イエス様は自分を認めない子も、拒絶する子も、「反キリスト」と言わないで、こう言いました。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された……たぶん、よだれをつけられたり、手を払われたりしながらも……さらに、イエス様はこうも言っています。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」……いったいいつ、子どもたちは神の国を受け入れたんでしょう? イエス様のもとへ連れて来られた子どもたちが、イエス様の教えを大人しく聞いた話も、イエス様を神の子と信じて告白した話も、聖書の中には出てきません。

 「子供のように神の国を受け入れる」も何も、子どもたちが、神の国を受け入れた具体的なエピソードは、一つも書かれていないんです。分かっているのは、「人々が子供たちを連れて来た」ことと、イエス様が「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」ことだけです。子どもたちの心情や反応は書かれません。良い子だったかも分かりません。

 むしろ、子どもたちの反応として考えられるのは、キョトンとしていたり、ふざけていたり、泣いたり、笑ったりしていることでした。信仰が何かも分からない子たちが、人々に連れられて、イエス様に抱き上げられます。最初は「イヤイヤ」して、泣き喚いていた子たちが、根気よく、手を置いて祝福するイエス様に、だんだん興味を持ち始めます。

 幼稚園で、2歳以下の子どもに会うと、最初はすぐにソッポを向かれることが多いです。神学生の頃は、目が合っただけで泣き出した子もいて、ものすごく焦らされました。でも、毎週顔を合わせているうちに、近づいたり離れたりしているうちに、子どもの方から、タッチしてくれるようになってきます。ゆっくり受け入れて、近づいてきてくれます。

 最初に読んだサムエル記には、エルカナとハンナの子どもが、一生を神に仕える者として、神殿に預けられる話が出てきました。その後歌った賛美歌「ちいさいこどものサムエルは」では、少し成長したサムエルが、神様の呼ぶ声を何度も聞いたエピソードが語られます。

 実は、少年サムエルが神様の声を聞いたとき、すぐにそれが、神様の声だと分かったわけではありませんでした。小さい頃から神殿で育てられているのに、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」とはっきり聖書に書かれていました。

 もしかしたら、この時のサムエルは、本当に神様がいると信じていなかったのかもしれません。心のどこかで疑って、神様の声を聞きたいとも思えなかったのかもしれません。神殿に預けられた彼は、毎年、母親が縫った上着を届けられていましたが、一年に一度しか、両親と会える機会がありませんでした。

 どうして、お母さんと一緒に暮らせないのか? なぜ自分だけ、神殿に置いていかれたのか? 神様がいるなら、自分を家族のもとに返してくれないのはなぜなのか? まだ幼い少年が、すぐに神様を認められなかったとしても、不自然ではありません。しかし、神様は、自分を知らない、信じていないサムエルに、何度も声をかけました。

 「サムエルよ、サムエルよ」……神様が自分を呼んでいると分からない、認められないサムエルは、自分を引き取った祭司エリが呼んでいるんだと思い込み、何度も「お呼びになったので参りました」と寝ているエリを起こします。エリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いますが、3度目になって、これは神様の仕業だと気づきました。

 「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」エリからそう言われ、ようやくサムエルは、神様の声だと分かり、認めます。素直に、まっすぐに、神様を受け入れられなくても、近づいたり、離れたりしていても、神様は、自分を受け入れるまで、子どもたちに、私たちに、出会い続けてくれるんです。

 結ばれてほしいけど、なかなか結ばれない……そんな誰かのことを、思い出している人たちへ、聖書は新しい言葉を語ります。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」

 そう、神様は初めから、繰り返し、私たちに呼びかけています。イエス様は繰り返し、私たちを抱き上げます。三度、自分を知らないと言われても、復活した自分に気づかなくても、自分だと分かるまで、「わたしの主、わたしの神よ」と答えられるまで、呼びかけ、出会い、抱きしめてくださいます。

 だから、安心して、神の祝福を受けてください。子どもたちに祝福を宣言してください。サムエルの成長を、弟子たちの成長を、思い出してください。キリストに結ばれる日は、必ずやってきます。語り続ける声が聞こえてきます。新しいことが始まっています。今や、それは芽生えています。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。