終末がやってくる?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 イザヤ書2:1~5、マタイによる福音書24:36~44
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
キリストの誕生を記念する、クリスマス前の4週間、アドヴェントに入りました。アドヴェントというラテン語は、もともと「到来」という意味の言葉で、この時期は、クリスマスの訪れを待ち望みつつ、天に昇ったイエス様が、再びこの世に到来する日を待ち望み祈りを合わせるときでもあります。
神の子イエス・キリストが再びこの世にやって来る「再臨の日」「来臨の日」と呼ばれるときは、「主の日」や「終わりの日」とも呼ばれ、イザヤ書の中にも、同じ言葉が出てきます。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」……主の神殿の山とは、エルサレム神殿が建てられたシオンのことです。
シオンという名前は、エルサレム全域と全住民のことを表す言葉にもなっており、イザヤ書2章には、終わりの日に、シオン(エルサレム)が世界の中心になることを、神様に約束される幻を見せられたことが書かれています。「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と……」
こう聞くと、ヤコブ(イスラエルの民)が、世界中から支持されて、本当の神様を指し示す存在になることが、預言の成就に至るポイントのように感じられるかもしれません。他の預言書や「小黙示」と呼ばれる福音書の一部でも、終末におけるイスラエルの復興が預言されており、イスラエルの再建なくして、終末の平和は訪れないと考える人もいるでしょう。
そして、イスラエルの建国を妨げ、イスラエルに支持しないことは、預言の成就を妨げることで、終わりの日に、神の国の到来を妨害した者として、裁かれる対象になってしまう……と恐れる人もいるでしょう。実は、パレスチナにユダヤ人の民族国家を樹立しようとする運動「シオニズム」を支持する人も、一部、この考え方が影響しています。
また、マタイによる福音書24章36節以下には、「人の子は思いがけない時に来る」と語られており、イエス様が再びこの世へ訪れるとき、ある者は一緒に連れて行かれ、ある者は取り残されてしまう描写が残してありました。「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される……」
もし、預言の成就を妨げるようなことをすれば、終末の日に取り残され、「神の国」「天の国」へ連れて行ってもらえなくなるんじゃないか……そんな恐怖を、幼いときから刷り込まれ、夢にまで見てしまう人もいます。そのため、「敵を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを大事にしているクリスチャンでも、イスラエルによる、多くの民間人を巻き込んだ占領政策や武力行使に、反対できない人も多いんです。
一方で、イスラエルの建国と再建のためにもたらされる犠牲は、無視されてしまう現実があります。先週も少し話しましたが、パレスチナにユダヤ人の民族国家を樹立するため追い出された先住民は、多くが難民になっています。ガザとヨルダン川西岸には、パレスチナ自治区が設けられていますが、ガザの周囲はイスラエル軍に包囲され、人や物の出入りが厳しく制限され、人口の7割を占める難民に、十分な物資が届きません。
また、ほぼ2年おきに受けている、イスラエル軍の激しい爆撃で、多くの市民が犠牲になっています。さらに、ヨルダン側西岸のパレスチナ自治区は、面積の6割以上がイスラエル軍の支配下にあり、入植地の近くでは、農地の破壊や土地の没収が頻繁に起こっています。巨大な隔離壁によって、学校・職場・病院に続く道路も閉ざされ、生活圏を分断されて、困っている人が大勢います。
そして、パレスチナ自治区で暮らしている住民の過半数は子どもです。武器を持たない民間人が、イスラエル軍に石を投げて抵抗すると、銃弾によって、何百人も殺されます。この様子を見て、現在のイスラエルから、「神の道が示されている」と感じる人は少ないでしょう。むしろ、「終末の平和」が語られる前に告げられた「シオンの審判」に関する言葉が刺さってきます。
「どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ」「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」
預言者イザヤは、紀元前8世紀後半に、南王国ユダの首都エルサレムで活動しました。彼は、紀元前734年から、2年に及んだシリア・エフライム戦争において、アハズ王に会見し、軽率な決断と行動を戒め、神への信頼を説いた人物です。その頃、アハズ王は、神様ではなく、外国の力に拠り頼み、親アッシリア政策を行っていました。その結果、イスラエルは、ほとんどアッシリアの属国と化し、破滅を招いてしまいます。
現在、イスラエルの復興、建国、再建のために、外国の軍事支援を頼り、現地の子どもや女性たち、市民の声を無視し続けている政策は、イザヤが非難した、かつてのイスラエルの姿とそっくりです。ハマスによるテロ攻撃も、もちろん、非難して然るものですが、その報復として行われている攻撃は、自衛の域を超えています。
そんなイスラエルの軍備に支援を続けている諸外国も、かつて、南王国ユダを支援し、偶像崇拝を導入させ、イスラエルの破滅をもたらした、アッシリアの姿と重なってきます。「預言の成就を妨げないため」と言って、このような姿をさらすことが、終末の平和を待ち望み、キリストの来臨を待ち望む、信仰者の姿と言えるのか、私は甚だ疑問です。
むしろ、イスラエルの隣人として、クリスチャンがあるべき姿は、神様が望んでいない子どもの犠牲や住居の破壊を辞めさせることではないでしょうか? イスラエルを復興するために、戦うことを支援するより、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」そんな道こそ、本来の目指すべき姿だと、声を上げることじゃないでしょうか?
イエス様は、終末がやってくる日のことを「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と言い、その時期を予測することは求められていないことを示しました。十字架につけられた自分が復活し、帰ってくる日を予想できなかった弟子たちに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と促し、誰一人、取り残そうとしませんでした。
目を覚ましていない者には、目を覚まさせて、連れて行くのがこの方です。悪戯に、恐怖をあおるため、終末の預言が語られたのではありません。むしろ、戦場で、被災地で、困窮している地域で、「悪が力を振るっている」「神の支配が遠のいている」と思わされている人に、「救いの完成は遠のいているわけじゃない」「神の国の到来は近づいている」と励ましをもたらす目的で、終末預言は語られました。
キリストの誕生を記念するクリスマスまで、あと4週間……救いが潰える恐怖ではなく、救いの完成への信頼によって、神の国の教えが伝えられるように、私たちも祈りを合わせていきましょう。主が、国々の争いを裁き、多くの民を戒められ、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする日が来ますように。平和が、あなたがた一同と共にあるように。
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