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自分を捨てる、自分を失う【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ルカによる福音書9:18〜27

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「自分を捨てる、自分を失う」

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」……弟子たちに、間もなく自分が死ぬことと、三日目に復活することを語ったイエス様は、その直後、彼らへこう命じました。出てくる単語やタイミングを見ても、不穏な雰囲気を感じさせます。
 
私は間もなく殺される。必ず多くの苦しみを受ける。衝撃的な予告に続いて告げられるのは、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という言葉です。聞きようによっては、「私はもうじき死ぬけれど、一緒に来るよね?」「あなたも私と一緒に死のう」と言っているように感じます。事実、後にはこう続きます。
 
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」……自分の命を捨てること、イエス様と一緒に死ぬことを命じたようにしか聞こえない。もしこれが、どこかの宗教団体で、その集団の教祖が言ったなら、私たちは警戒するでしょう。こんなことを言い出すのは、カルトの特徴だったな……と。
 
一方で、イエス様はこうも言いました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」……弟子たちに「自分を捨てる」よう命じながら、「自分の身を滅ぼすこと」「自分を失うこと」がないようにと警告します。よく考えたら矛盾しています。自分を捨てたら、その身は滅ぶし、失われるからです。
 
さらに不思議なのは、自分の死を予告して、ついて来たい者は自分を捨てるよう、自分の命を捨てるよう命じながら、最後にこう言うんです。「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」……それは、イエス様に従う人が迎える未来に聞こえますが、やっぱり矛盾しています。
 
だって、イエス様について行って、自分を捨てたら、命を失ったら、神の国を見る前に死ぬからです。「神の国を見るまでは決して死なない」ということは、裏を返せば、イエス様に従って自分を捨てることも、イエス様のために命を失うこともできない人の姿です。イエス様を見捨てて逃げた人にしか、神の国を見るまで死なない未来はありません。
 
この箇所を読んでシンプルに、「イエス様のためなら、自分の命を捨てることも惜しまないよう勧められている」と捉えることは簡単です。実際、私たちキリスト教会は、そうやってこの話を聞いてきました。でも実は、そう単純に言い切らせない、殉教の勧めで終わらせない、言葉と言葉の間に見える、緊張が存在しています。
 
自分を捨て、自分の十字架を背負うよう命じてくる一方で、自分の身を滅ぼすこと、自分を失うことがないようにと勧めてくる。自分についてくる者へ、死を覚悟させる一方で、自分を捨てられなかった者へ、神の国を見る日を予告する。実際、この言葉を聞いた弟子たちは、誰一人、イエス様と一緒に、自分の命を失った者はいませんでした。
 
ペトロも、ヤコブも、ヨハネもみんな、イエス様のために自分を捨てて捕まることも、イエス様のために命を失うこともできず、イエス様を置いて逃げていく未来がありました。「神の国を見るまでは決して死なない」と言われた正体不明の人間も、自分を捨てられず、イエス様のために命を失うことができなかったからこそ、この後も生き延びた人でした。
 
イエス様は、弟子たちに厳しい言葉を言いつつも、自分についてこられなかった者、自分に従えなかった者を切り捨てることはありませんでした。自分の教えを理解できず諌めてきた者も、途中から裏切りを考えていた者も、「神の国でまた飲もう」と約束して、パンとぶどう酒を手渡しました。
 
敵に捕まり、みんなに見捨てられ、十字架につけられて殺された後も、復活して彼らに再会し、「わたしに従いなさい」と呼びかけました。従えなかった者を恥じるためではなく、神の国へ受け入れるために、死を超えて「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。イエス様は、その後も決して、弟子たちを捨てませんでした。
 
イエス様が求めた「自分を捨てる」という行為は、あなたがあなたを蔑ろにして、イエス様の教えを実践することではありません。自分で自分を死んでもいいように扱うことではありません。自分の考えを消し去ることでも、自分に価値がないかのように振る舞うことでもありません。
 
「自分を捨てる」とは、捨てられることに怯えない、新しい者になることです。イエス様についていくとき、これができないから、あれができないから、捨てられるかもしれない……と恐れないで、どこまでも自分が滅びないよう、一緒にいてくれるイエス様を信頼することです。イエス様は、あなたを失わないために、十字架にかかった方だからです。
 
あなたが捨てるべき自分は、捨てられることを恐れている自分です。私たちが、自分の犯した過ちを、自分の抱えている罪を、正面から見つめることができないのは、ダメな自分が捨てられて、滅ぼされることを恐れてしまうからです。捨てられてしまう、滅ぼされてしまう、ダメな理由を見つけることが、恐ろしいからです。
 
でも、イエス様は、あなたを捨てません。自分についてこなかった、自分を理解できなかった、自分に従えなかった弟子たちを、決して捨てなかったように、彼らと新しく出会い続けてきたように、あなたのことも捨てません。あなたとも、繰り返し、何度も出会い続けます。たとえ、あなたが拒んでも。
 
イエス様が私たちに悔い改めを求めたのは、罪悪感で従わせるためではなく、希望を持って一緒に来てもらうためです。あなたにどんな過ちがあろうとも、どんな弱さがあろうとも、あなたを捨てることはない。新しい生き方ができるよう、神の国へ迎えられるよう、イエス様は、どこまでも付き合い続けます。「私はあなたを迎えるためにやってきた」「神の国は近づいた」と。
 
信仰者が神様の前で悔い改めるのは、自分を捨てないで、新しくしてくださる方を信頼するからです。「お前は罪人だ」と言って、切り捨てる方ではないことを信じるからです。誰かを信じることが怖くても、疑うことがやめられなくても、間違ったことから離れられなくても、それを認めた瞬間に、あなたを捨てる神はいません。
 
神様は、あなたを迎えるためにイエス様を遣わしました。イエス様が十字架にかけられるまで、変わることができなかった弟子たちのように、今も変わることができなくて、悩み続けるあなたのもとにも、イエス様はやって来ます。従えなかったことを知っているのに、ついていけなかった自分を見ているのに、なお言われます。「わたしに従いなさい」
 
あなたを捨てる気はないよ、あなたを死なせる気はないよ、あなたに新しい命を与えるために、永遠の命をもたらすために、私は十字架にかかったんだ。死を超えて、あなたと再会しているんだ。神の国で、私があなたを恥じる日は来ない。あなたが神の国へ迎えられるまで、私はあなたと出会い続けるからだ。
 
いつか、私たちは、古い自分を捨てる日がやって来ます。捨てられることを恐れ、変わることを期待できなかった自分……裁きを恐れ、救いを疑ってしまう自分……そんな自分を捨てられる日がやって来ます。信じられるようになるまで、新しい自分になれるまで、何度も出会ってくださるイエス様がいるからです。
 
キリストの復活を記念するイースターまで、あと3週間。私たちにもたらされた、良い知らせを心に刻み、希望を持って、自らの罪と向き合いましょう。自分を見捨てた弟子たちを、復活の証人として、新たに送り出された救い主イエス・キリストの平和が、あなたがたにありますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。