見出し画像

聞く耳がなかったら【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ルカによる福音書8:4〜15

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「聞く耳がなかったら」

「聞く耳のある者は聞きなさい」……非常に説教くさい言葉ですが、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の3つで、イエス様が繰り返し語った言葉です。集まってきた群衆に向かって、傍にいる弟子たちに向かって、イエス様は言いました。聞く耳のある者は聞きなさい……しかし、そのとき語られた教えは、聞いてもよく分からないものでした。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」

「イエスはたとえを用いてお話しになった」とあるように、この内容は、直接何かを命じたり、直接何かを説明するものではありません。何を何にたとえているか、前提が共有されなければ、誰にも意味は分かりません。聞く耳があっても、聞いただけで、何をすればいいか、何を意味しているか、理解できるものではありません。

実際、いつもイエス様と行動していた弟子たちでさえ聞いています。「このたとえはどんな意味ですか?」すると、イエス様はたとえの意味を話す前に、弟子たちには「神の国の秘密を悟ること」が許されているが、他の人々には「見ても見えず、聞いても理解できない」ように、たとえを用いて話すのだと語ってきます。

何だか意地悪に聞こえます。目的もよく分かりません。不思議なことに、イエス様は、みんなに教えを分かりやすく説明するために、たとえを用いるのではなく、他の人々に分からないよう、たとえを用いて話します。弟子たちはこの説明を聞けますが、群衆の多くは聞けません。彼らは解説なしで、たとえだけを聞かされます。

弟子たち以外は、たとえの説明を聞く資格がなかったんでしょうか? しかし、集まってきた群衆は、方々の町から、イエス様の話を聞きに、はるばるやって来た人たちです。イエス様に病気を癒してもらった人もいれば、イエス様の仲間になりたくて、ついてきた人もいたはずです。

イエス様の話を邪魔したり、拒絶するために集まっていたわけではなく「聞く耳を持って」集まっている人たちもたくさんいました。聞く耳がないなら、はじめから町や村を超えて、わざわざやっては来ないからです。それなのに、イエス様は「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ように、たとえを用いて語ります。

神の国について教えるために人々へ話をしているのに、みんなが分からないように意味を隠して教えを語る。ものすごく矛盾したことが行われており、この矛盾は、現在の私たちに対しても続いています。なぜなら、多くのたとえ話で、弟子たちが聞いたイエス様の解説が載っているのは、聖書の中に一つか二つしかないからです。

おかしいですよね? 神の国の秘密なのに、最も重要な教えなのに、そのほとんどが記されず、聞いてもすぐには分からない、たとえばかりが記される。弟子たちはなぜ、自分たちに教えられた、たとえ話の意味について、ちゃんと残さなかったんでしょう? なぜ、後の世代に書き残すよう継承しなかったんでしょう?

多くのたとえが、意味を記されなかったおかげで、今でも、牧師、神学者、聖書学者の間で、それぞれの解釈について、様々な議論が展開されます。「このたとえはこういう意味ではないか?」「いや、こういう意味にもとれる」「いやいや、こういう捉え方もある」……正しい解釈が見つかったと思っても、また別の、新たなメッセージを受け取ることがでてきます。それこそ、信徒一人一人の間でも、違ったメッセージが受け取られていきます。

数少ない、たとえ話の解説が記された「種を蒔く人」の話でも、最初に「種は神の言葉である」と説明され、それぞれの土地が「神の言葉を聞く人々」を指している……と分かりますが、最終的には「種」が「神の言葉を聞く人々」に置き換わります。つまり、自分たちを「神の言葉が蒔かれる土地」として捉えるか、自分たちを「それぞれの土地で御言葉を実らせる種」として捉えるか、人によって変わってくるんです。

イエス様が弟子たちに教えた「たとえ話の意味」でさえ、「一つの正しい解釈」のようなはっきりしたものは示されません。聞く人によって、聞いたときによって、異なる解釈を与えられます。イエス様の教えを理解したい、実践したいと思っている「聞く耳のある」人たちも、明確な答えは与えられず、「この捉え方でいいのかな?」「他にも意味があるのかな?」と自問させられ続けています。

なんとなく、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたら、「聞けば分かるだろう」という印象を受けますが、むしろ、聞く耳のある者こそ、聞いても分からないのが自然なんです。あなたが聖書を開いて、イエス様の言葉を目にし、耳にし、「分からない」と唸るとき、あなたは確かに、イエス様が種を蒔いた「聞く耳のある者」なんです。

もしかしたら、イエス様の言葉が理解できず、困惑し、つまずいてしまうのは、自分には「聞く耳がないからなんだ」と感じるかもしれません。自分には「信仰的な土台がないから」「信仰者として未熟だから」聖書の言葉を正しく聞くことができないんだと思われるかもしれません。

しかし、イエス様の言葉を聞いてつまずくのも、分からないのも、すぐには悟らないのも、弟子たちと一緒です。「そのたとえはどんな意味ですか?」と聞きたくなるなら、あなたは神の国の秘密を悟ることが許されている、あの弟子たちと一緒です。

思い出してください。弟子たちもまた、復活したイエス様を見ても、イエス様と分からず、イエス様が復活すると聞いても、理解できない人間でした。「見ても見えず、聞いても理解できない」人たちでした。たとえどころか、直接何が起こるか、はっきり聞かされていても、分からなかった人たちでした。

しかし、彼らに蒔かれたイエス様の言葉は、そのまま奪われたり、枯れてしまったり、覆い塞がれたままにされることはありませんでした。復活したイエス様が、彼らを耕し、水を与え、茨を刈り取って、良い土地になるまで、実を結ぶまで、付き合い続けてくださったからです。

聖書に記されたたとえ話は、そんなイエス様と出会うための言葉です。他人から教えられる正解ではなく、あなたがイエス様に「どんな意味ですか?」と尋ね求め、メッセージを受け取るように促されています。弟子たちも、一人一人、イエス様から、自分に語られるたとえの意味を聞きました。

それは、何か一つの正しい受け取り方を聞いたのではなく、自分の直面している現実の中で、自分にとって意味を持った、たとえの意味を聞いたんです。ペトロはペトロに、ヤコブはヤコブに、ヨハネはヨハネに語られた、イエス様のたとえの意味を聞きました。それは自分に語られた言葉で、自分に悟ることが許されたものでした。

だから、あなたにも、あなたが悟ることを許されている、たとえ話の意味があります。イエス様が語るたとえ話は、みんなに語られたものでありながら、あなただけに語られたものでもあるんです。同時に、あなたが受け取ったメッセージは、誰かの土地に蒔かれる種となり、誰かが受け取ったメッセージは、あなたの土地に蒔かれる種となります。

イエス様は繰り返し言いました。あなたが信じて救われるように、あなたが御言葉の種を実らせるように、あなた自身が、御言葉の種となるように、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、たとえ話を語りました。「このたとえはどんな意味ですか」と、あなたが自分へ聞きに来て、自分と新しく出会うように、今日もイエス様は語っています。

困惑する者、分からない者、つまずいた者……自分に自信を失って、何も変わらないと項垂れている者、安心して聞きなさい。あなたの耳は確かにイエス様の言葉を聞いています。あなたが見ているものを見えるようになるまで、聞いているものを理解できるようになるまで、イエス様は出会い続けます。閉じている口を開き、共に賛美を合わせましょう。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。