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ゆるされないまま?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書20:19〜31

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……イエス様が弟子たちに残した言葉は、非常に大胆で、恐ろしい話に聞こえます。もし、何か重大な罪を犯しても、弟子たちが赦せば、その罪は綺麗に赦され、弟子たちが赦さなければ、赦されないまま残ってしまう。
 
ものすごく大きな権限が、神の子から、人間の手に渡されます。良いんでしょうか? もし、弟子たちが赦すべき相手を赦さなかったら、その人は神の赦しを受けられず、永遠の命も受けられず、神の国へ入れずに、滅ぼされてしまうんでしょうか? 弟子たちの私怨や偏見で、誰かが不当に赦されない……なんてことがあったら、どうするんでしょうか?
 
反対に、弟子たちが「赦してもいい」と思った相手が、自らの罪を悔い改めず、傷つけた者を顧みず、悪を犯し続ける人だったら、それでも罪を帳消しにされるんでしょうか? 誰かにとっての悪人が、神の赦しを受けてしまって、永遠の命を与えられて、善人と一緒に神の国へ入ってしまう……なんてことがあっても、いいんでしょうか?
 
よく考えると、恐ろしい宣言ですよね? 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」イエス様を信じて洗礼を受けた、キリストの弟子となった自分自身に、同じことが言われても、「分かりました、任せてください!」と胸を張るのは難しいことです。
 
いやいや先生、私にそんな大それたこと、言わないでください。私自身、人の罪をどうこう言えるような立場じゃありません。私が「赦す」とか「赦さない」とか言い出せば、「お前の罪はどうなのか?」「あなただって、人のこと言えないじゃないか?」と詰め寄る人が出てくるでしょう。私に任せるべきじゃありません。
 
こういうふうに断ろうとする人が大半じゃないかと思います。たぶん、信仰者の多くが気にするのは、自分が「誰を赦すか」ではなく、自分が「赦されるかどうか」です。イエス様は、私を赦してくれるのか? 私に永遠の命をくれるのか? 私を神の国へ迎えてくれるのか?……これらが問題であって、私が、人様の罪を赦すかどうかは別の話です。
 
もし、私が「赦す」と言わなければ、その人は神の赦しも受けられない……と言うならそんな責任負いたくありません。「あなたが赦さなければ、あの人は地獄へ落ちるんだ」とか「あなたが赦さなければ、この人は天国へ入れない」とか言われたら、赦せない自分が人でなしのように感じます。
 
弟子たちには、イエス様の言葉がどのように聞こえたんでしょう? 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……イエス様を見捨てて逃げたのに、約束を破って、最後までついていかなかったのに、今更、人の罪を「赦す」とか「赦さない」とか言えるでしょうか?
 
どっちも言えません。そんな権限、自分にふさわしくありません。まず、わたしが赦されるかどうかが問題です。わたしが赦されたなら、他の人のことも「赦せない」なんて言えません。だって、イエス様と一緒に捕まるのが怖くて、殺されるのが嫌で、イエス様のことを「知らない」と三度否定し、呪いの言葉まで吐きました。
 
イエス様の最後を看取ることも、遺体を十字架から下ろすことも、葬りの式さえ、しませんでした。全部放り出して、家の中に逃げ込んで、戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「死んでから三日目に復活する」という約束も忘れ、「わたしは主を見ました」という仲間の言葉も信じないで、復活したイエス様を外に締め出し、隠れていました。
 
それなのに、イエス様は戸に鍵をかけていた自分たちの家へ現れ、自分たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われます。それは、見捨てて、逃げて、放り出した自分たちへの、あり得ない赦しの言葉でした。普通なら「なぜ見捨てたのか?」「なぜ逃げ出したのか?」という非難が続くはずでした。
 
しかし、イエス様は、自分を見捨てて、裏切って、信じなかった弟子たちに「平和があるように」と言いました。まだ、謝ってもいない、この後も、はっきり謝罪を述べられない弟子たちに、「平和があるように」と言いました。さらに、イエス様は、他の人たちの罪を赦す権威まで、弟子たちへ委託されます。
 
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……それは、「赦された者」でなければ、委託されない権威でした。「間違いなく、あなたはわたしに赦された」という、しるしでした。表面的な、その場しのぎの和解ではなく、新しい関係を築く言葉でした。
 
本当は、私が見捨てたことだけは、私が否定したことだけは、赦しておられないんじゃないか? 私の中には、まだイエス様に赦されていない罪が残っているんじゃないか? そのような弟子たちの不安を、イエス様は全力で吹き飛ばします。「自分が赦されるかどうかではなく、自分がだれを赦すかに目を向けなさい。あなたはもう赦されている」
 
ときどき、キリスト教徒の中にも、自分が赦されるために、人を赦そうとする方がいます。他者に対して、自分が赦されるために、相手のことも赦しなさいと勧め、強要してしまう方がいます。しかし、あなたが誰かを赦さなければ、あなたが赦されなくなるわけではありません。あなたはもう、イエス様から赦されています。
 
自分が神様から赦されるために、誰かを赦す必要はないんです。むしろ、赦されているから、救いにあずかっているから、「自分のために」ではなく、本当に「その人のために」赦すという道ができているんです。恐怖心からではなく、心からの和解のために、人を赦す道が作られているんです。
 
その始まりも、その過程も、イエス様が備えてくださいます。今、誰かを赦せない自分がいても、イエス様が必ず、新しい道を作ってくださいます。復活したイエス様と、自分だけ出会えなかったあのトマスも、「わたしだけ赦されていないのではないか?」「わたしの罪は赦されないまま残っているんじゃないか?」と不安を覚えて過ごしました。
 
彼は、他の弟子たちの話を聞いても、イエス様の復活を信じるとは言えず、自分に出会ってくれなかったイエス様を、みんなと一緒に居なかった自分を、「赦せない」日々を過ごしました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と叫びました。
 
しかし、そんなトマスのために、イエス様は再び、戸に鍵のかけてあった家に現れ、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」……トマスに直接声をかけ、新しい命を与えます。
 
あなたはちゃんと赦されている。わたしはあなたを赦している……その宣言を受けて、トマスも自ら「わたしの主、わたしの神よ」と答えられるようになりました。これは、福音書の中で唯一、イエス様を直接「わたしの神」と告白した人の言葉です。トマスは信じない者から信じる者へ、「初めてキリストを神と告白した者」へ変えられたんです。
 
同様に、今、誰かを赦せない者、自分が赦されていると思えない者も、イエス様から、新しい命を与えられます。全ての者が、キリストによって、赦された者とされたように、赦せない者も赦せる者へ、信じない者も信じる者へ変えられます。イエス様が命じたことを、イエス様と一緒に果たしていく者へ変えられます。共に、新しい命を受けましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。