パンをくださいと言えなくて【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨハネによる福音書6:1〜15
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
大勢の群衆が、自分の後を追ってくるって、けっこう恐ろしい光景です。自分の後ろにたった一人でも、誰かがピタッとついてきたら、何をされるか、思わず不安になってしまいます。しかも、男だけで5千人以上、ゾロゾロついてきたとしたら、普通はパニックになるでしょう。
実は、この少し前、イエス様がベトザタの池で、体の不自由な男を癒したあと、多くのユダヤ人たちが、イエス様を殺そうと、狙うようになっていました。なぜなら、イエス様はユダヤ人の掟で「仕事をしてはいけない日」と定められた安息日に、男を治療し、床を担がせ、歩かせていたからです。
さらに、神様を自分の父と呼んだため、「人間のくせに、自分を神に等しい者だと言っている」と、ユダヤ人たちを怒らせ、よくない教えを広めていると、議論の的にもなっていました。そんな中、大勢の群衆が、自分の後を追ってくる……しかも、湖の向こう岸へ渡っても、なお、しつこく追ってくる。
おそらく、皆さんの多くは、大勢の群衆が、イエス様の後を追ってきたのは、イエス様の話を聞きに来たか、病気を癒してもらうためだった……と思うでしょう。実際、2節には「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」というふうに、ちゃんと理由が書かれています。
しかし、彼らは、病人が癒やされたのを「見たから」ついてきたのであって、自分が癒やされるために、身内を助けてもらうために、ついてきたのではなさそうです。この後、イエス様は山に登ったり、湖を渡ったり、再び山へ戻ったりしますが、その間に、イエス様へ病気を癒してもらおうと、声をかける人たちは現れません。
私もずっと不思議でした。イエス様が、5千人以上の人々に、パンと魚を分けたあと、すぐに一人で退いて、姿を消してしまったことが……これだけ多くの人が、病気を癒してもらいに、身内を助けてもらいにきたのであれば、イエス様が彼らを置いたまま、姿を消してしまうのは、ちょっと考えにくかったからです。
けれども、そもそもここに集まった人たちは、湖を渡ったり、山を登ったり、あちこち進んでいくイエス様をしつこく追いかけられるくらい、元気な人のようでした。イエス様に分けられたパンと魚で、全員のお腹が満たされたあとも、病気を癒してもらおうとする人はなく、むしろ、自分たちの王にするため、イエス様を連れて行こうとしてきました。
けっこう元気ですよね……? 考えてみれば、イエス様が湖を渡ろうとする前に、人々と話していた内容も、決して歓迎されている雰囲気ではありませんでした。神様を自分の「父」と呼ぶイエス様に、ユダヤ人たちは反感を覚え、イエス様が安息日に病人を癒した業も、素直に神様の力とは思えないでいるようでした。
おそらく、彼らがイエス様を追ってきたのは、病気を癒してもらうためでも、イエス様の教えを聞くためでもなく、イエス様が何者なのか、捕えるべき相手なのか、知るためだったんだと思います。そもそも、イエス様はベトサダで、安息日に病人を癒したときから、命を狙われている人でした。
そう思うと、このシーンもだいぶ印象が変わってきます。「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた……フィリポは仰天したでしょう。いやいや先生……あの群衆が、あなたに何をするか分かりません。パンなんてあげている場合ですか?
そう、これって、イエス様に好意的な、歓迎的な人々が、追いかけてきたシーンではないんです。何かきっかけがあれば、いつ飛びかかってきてもおかしくない、イエス様を疑問視する人たちの塊なんです。それなのに、イエス様は自分を追ってきた人たちのために腹を満たそうと提案します。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」……聖書には、イエス様がこう言ったのは、フィリポを試みるためであったと書かれていますが、何を試みたんでしょうか? 明らかに「パンを買える場所を答えられるか」ではありません。「彼らのために、パンを用意することを、あなたも賛成してくれるか?」という問いかけです。
当然、弟子たちもイエス様が安息日に病人を癒したことで、ユダヤ人たちに命を狙われていると知っています。おそらく、湖を越えて近づいてくる群衆は、自分たちに剣をかまえた軍隊のように見えたでしょう。困ったフィリポは、それでも何とか答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」
さらに、ペトロの兄弟アンデレが、イエス様にこう言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」……2人とも、群衆のためにパンを用意することを、正面から反対はしませんが、「これだけでは足りないので、彼らの分もパンをください」とは言えません。
弟子たちが最初に見たイエス様の奇跡は、足りなくなったぶどう酒を増やす奇跡です。ただの水を良いぶどう酒に変えてしまった、あの奇跡……同様に、足りなくなったパンを見つめて、思い出さなかった弟子はいないでしょう。けれども、彼らは言い出せません。イエス様の後を追ってくる群衆のため、パンをくださいと言えません。
だって、彼らは襲ってくるかもしれません。襲いにきたのかもしれません。パンを用意するよりも、さっさと距離を取りたかったのが本音でしょう。ところが、イエス様は落ち着いて、少年からパンと魚を受け取ると、追いかけてきた群衆を座らせ、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられます。欲しいだけ、満腹になるまで……。
ちょうど、過越祭が近づいているときでした。過越祭では、神殿で小羊が屠られ、種無しパンと小羊の肉をメインとした、過越の食事を家族で取ります。イエス様は、自分のことを、よく「小羊」と表現しました。洗礼者ヨハネも、イエス様のことを「神の小羊」と言いました。
まさに、自らを「過越の小羊」として差し出す方が、自分を追いかけてきた群衆にも、「取って食べなさい」と分け与えます。いつ、自分を捕まえて、最高法院へ引きずっていくか、自分を都合よく捉えて、王にしようと引っ張っていくか分からない相手に、空腹を満たすようパンを渡します。
彼らもまた、イエス様に「パンをください」と言えなかった人たちです。そもそも、パンをもらえるなんて思ってもいなかった人たちです。だって、自分たちはイエス様のことを捕えるべきか、持ち上げるべきか、値踏みしている者だったから……神様を自分の父と呼ぶ人が、本当に神の子だとは思っていなかったから……。
可哀想な者、弱っている者、従順な者のように、分かりやすく、イエス様が手を差し伸べてくれそうな人たちだけが、パンをもらったのではありません。そこには、イエス様を裏切る人がおり、イエス様を見捨てる人がおり、イエス様に楯突く人がいました。パンをもらって当然とは思えない人がたくさんいました。
信じていなかったけど、疑っていたけれど、詰め寄ってしまったけれど、自分のために感謝の祈りを唱えて、分け与えてくれるイエス様に出会った……それこそが、5千人の給食の奇跡だと思うんです……あなたも、そこに居た一人でした。御言葉のパンを与えられ、足りないものを満たされた、イエス様に迎えられた一人でした。
さあ、少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。こぼれ出たパン屑を、溢れ出たパン屑を集めて、さらに配れるようにしなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。アーメン。
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