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もっと気になるキリスト教(9)【キリスト教ABC講座】

聖書の内容やキリスト教に関する知識をQ&A方式でザックリ説明している講座です。

 

旧約聖書に関する質問

Q. 神に試されたヨブは、どんな人生を送ったんですか?

A. ヨブ記の主人公は、神を畏れる正しい人として登場し、悪を避けて生きていました。自分だけでなく、息子たちが犯したかもしれない罪をも赦してもらうため、念入りに神への祈りをささげ、礼拝する人でもありました。神もヨブのことを賞賛しますが、地上を巡回するサタンは、ヨブが神を敬うのは、自分たちの保護と利益のためであって、それらが失われたら、神を呪うに違いないと訴えます。そこで、神はサタンに対し、「お前のいいようにしてみるがよい」と答え、サタンは、ヨブの財産、娘や息子の命、彼自身の健康を奪い、ヨブが神を非難するまで追い詰めます。ヨブを慰めにきた友人たちは、彼が悲惨な目に遭ったのは、彼自身が何か罪を犯したからに違いないと考え、ヨブに悔い改めるよう促しますが、ヨブは自身の潔白を主張し続けます。最終的に、神は自分を非難するヨブと和解し、ヨブが自分について正しいことを語っていると宣言し、ヨブの潔白を信じなかった友人たちへ、ヨブにとりなしを求めれば、それを受け入れることを約束しました。このように、ヨブ記の話は、「善人は祝福され、悪人は罰を受ける」という応報思想に合致しない現実を前に、「神は正しい方であるはずなのに、悪を避けている正しい者が、苦しみを受けるのはなぜなのか?」という問いに取り組むものとなっています。

 

Q. 詩編には、神への嘆きや怒りや恨みも出てくるんですか?

A. 詩編には、神への賛美・感謝・信頼を表す詩の他に、神への怒り・嘆き・疑問を訴える詩も収められています。単に、綺麗な言葉が並べられているわけではなく、悲しみと喜び、疑いと信頼、痛みと慰め、絶望と希望、怒りと安堵、復讐心や赦しなど、人間のありとあらゆる感情が表出し、生活の全てを神と分かち合う先人たちの言葉が記されています。詩編自体は、数百年の歳月をかけて、今の形にまとまった、聖書の中で最も長い書物です。苦しみや困難を前に、神に対してどのように祈ったらいいか分からず、怒りや嘆きの言葉しか出てこないような人たちも、それらの叫びを祈りとして受けとめられ、喜びと感謝が湧いてくるまで、神が付き合い続けてくださる様子が描かれています。

 

Q. 箴言には、どんな知恵が書かれているんですか?

A. 箴言は、伝統的に、イスラエルの王ソロモンが記したものとされていますが、無名の賢人たちも作者として挙げられており、ソロモンの死後、300〜400年かけてまとめられたと考えられています。「知恵ある者の格言集」として読むことができますが、それらの知恵は、人間が自分の努力で獲得したものではなく、神から来たもの、神から与えられるものとして記されます。ここに出てくる「神の知恵」は、出エジプト記で、モーセを通して神から与えられた律法に基づき、知恵ある者は正しい判断をすることができ、神の祝福を受けて、富や幸福を与えられ、愚か者は絶えず間違った道を選び、神の裁きと罰を受ける、というふうに単純化して語られます。ただし、これらのシンプルな教えは、複雑な問いに取り組むための「前提」であり、ヨブ記やコヘレトの言葉では、「善人が苦しみ、悪人が繁栄している現実があるのはなぜなのか?」という問いにも関心が向けられています。

 

Q. コヘレトの言葉では、人生が無意味で空しいものだと語られているんですか?

A. コヘレトの言葉の著者が誰であるかは不明ですが、「コヘレト」とは「召集する者」という意味のヘブライ語で、様々なことわざ、格言、詩などを用いて、人生の意味を探究している書物です。コヘレトの言葉では「空しい(不条理)」という言葉が繰り返され、人生における様々な疑問の答えを見出すのは容易ではないと強調されています。また、「神に従う者は祝福され、神に逆らう者は裁きを受ける」というシンプルな応報思想に対し、「人は神を敬い、神に従うべきであるが、正しい者にも不幸は訪れ、悪人にも繁栄があり、知恵ある者にも、愚か者にも、等しく死が訪れる」という人生の矛盾が指摘されています。一方で、人間の限られた理解力では、神の計画や人生の意味を見出すことはできないものの、その人生を神から与えられた恵みとして楽しむことが、希望と答えにつながっている……とも繰り返されます。

 

Q. 雅歌は、30歳未満禁止の内容が書かれているって本当ですか?

A. 雅歌には、様々な恋の歌が記されており、恋人同士の物語が中心に据えられています。その中には、人前で朗読するのがはばかられるセクシュアルな表現も出てくるため、今でも、ユダヤ教では30歳未満は読んではならないことになっています。一見、神への言及がなく、人間の恋愛だけを描いているように思えるため、雅歌を聖書の正典に含めるべきかは長い議論がありました。しかし、神と民との関係を夫婦関係になぞらえているホセア書やエレミヤ書の描写から、雅歌に出てくる恋愛歌も、神と人との関係や、キリストと教会との関係が、象徴的に表されていると捉えられ、聖書の正典として認められるようになりました。

 

Q. 哀歌には、誰の悲しみや嘆きが綴られているんですか?

A. 哀歌はその名のとおり、深い悲しみを表現している詩が収められ、キリストが十字架につけられるまでの一週間を思い起こす「受難週」の礼拝でも、この歌の一部を朗読する習慣があります。この歌は、エルサレムの町と神殿が破壊され、国を滅ぼされた悲劇を目撃した人物の視点で描かれています。エレミヤ書に似た語調や雰囲気が見られるため、伝統的に、預言者エレミヤの嘆きや悲しみが記されていると言われますが、実際には、一人の著者によるものではなく、エルサレムの悲劇を目撃した複数の人々による歌がまとめられていると考えられます。哀歌には、深い悲しみと多くの嘆きだけでなく、希望と恵みへの信仰も見られ、「神への嘆き」は「神への信頼」に至る祈りでもあることを教えてくれます。

 

新約聖書に関する質問

Q. キリストの復活は、どのように描かれているんですか?

A. キリストの復活は、劇的な出来事であるにもかかわらず、たいへん静かに描かれています。イエスは弟子たちに、自分が十字架につけられて死んだあと、3日目に復活することを3回にわたって教えていましたが、弟子たちは誰も、その日にイエスが復活するとは信じておらず、家の戸に鍵をかけて、閉じこもっていました。キリストの復活を信じ、キリストを迎える用意のできていた者は、一人もいませんでしたが、イエスは彼ら一人一人の前に現れ、「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と声をかけていきました。キリストの復活は、自分を見捨てた者、裏切った者へ、罰を受けさせるためではなく、和解と平和をもたらすために成し遂げられます。自分が赦されたことを信じられない弟子たちへ、キリストは新しく出会われて、「わたしの羊を飼いなさい」と命じ、彼らとの関係が終わってないこと、むしろ、新しくされたことを伝えていきました。

 

Q. 復活したキリストは、なかなか本人だと気づかれなかったんですか?

A. 復活したキリストは、自分の墓の前で泣いていたマグダラのマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声をかけ、振り向いた彼女に姿を見られますが、「マリア」ともう一度呼びかけるまで、自分だと気づかれませんでした。また、エマオへ行く途中、自分について話していた2人の弟子に声をかけ、自分について、聖書がどのように記しているか語りますが、2人のために、パンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂くまで、自分だと気づかれませんでした。また、復活して弟子たちと再会した後も、漁に出ていた弟子たちへ「子たちよ、何か食べる物があるか」と声をかけ、舟の右側に網を打てば、魚が獲れると言いますが、実際に魚がたくさん獲れるまで、自分だと気づかれませんでした。イエスは復活して会いに来た自分を、自分だと気づけない人たちに、自分だと分かるまで声をかけ、名前を呼び、パンを裂いて分け与える方でした。

 

Q. キリストが復活したと聞いて、弟子たちはどうしたんですか?

A. イエスの弟子たちは、先に、復活したキリストと出会った女性たちから「わたしたちは主を見た」と言われても、信じられずに、家の中へ閉じこもっていました。実際に、墓が空になっていることを確認した弟子たちも、「イエスが死者の中から復活した」ということが理解できずに過ごしていました。それだけでなく、彼らは復活したキリストが帰ってくるかもしれないのに、家の戸に鍵をかけて、誰も入ってこれないように締め出していました。また、イエスを探しにいくどころか、イエスから遠のくようにエルサレムを離れ、エマオの村を目指して出発した弟子たちもいました。実は、キリストの復活を聞いた弟子たちの反応は、信仰を捨てた者の反応でした。しかし、イエスはエルサレムから離れていた弟子たちを、他の弟子たちのもとへ送り返し、鍵のかかった家の真ん中に現れて、彼らに「平和があるように」と呼びかけ、自分が復活したことを信じるように、一人一人へ促していきました。

 

Q. トマスは復活したキリストの手と脇腹の傷に指を入れたんですか?

A. トマスは、他の弟子たちが復活したキリストと再会したとき、自分だけ家に居なかったため、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。そのため、弟子たちの中でも「疑り深い人物」と言われることが多いですが、実際のところは、他の弟子たちも、復活したイエスをその目で見るまで、信じることができませんでした。やがて、トマスは8日後に、復活したキリストと出会い、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。けれども、トマスは傷跡に指を入れることなく、その場ですぐに「わたしの主、わたしの神よ」と答えました。実は、イエスを「わたしの神」と直接告白したのは、弟子たちの中でもトマスが初めてでした。信じない者だった彼は、こうして信じる者となり、イエスを神と告白する最初の人物になりました。

 

Q. 復活したキリストと直接会っても、信じなかった弟子がいるんですか?

A. 実は、マタイによる福音書の最後を見てみると、ガリラヤで復活したキリストと再会した弟子たちの中に、まだ「疑う者もいた」ことが書かれています。しかし、イエスはそんな彼らに、「わたしもあなたを知らない」とは言わず、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語ります。自分に最後までついてくることができず、裏切って、見捨てて、逃げ出した挙句、復活しても、なお信じられない弟子たちに、信じられるまで付き合い続け、自分の弟子として接し続けるキリストの姿が描かれます。キリストが復活したことを聞いても、どうしても、その復活が信じられず、自分は本当に信仰があると言えるのか、悩んでしまう人たちも、キリストはご自分の弟子として送り出し、いつも一緒にいることを約束しています。

 

Q. キリストが天に昇って姿を消す前、弟子たちにどんな言葉を残したんですか?

A. ルカによる福音書の最後には、復活したキリストが、弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、彼らを祝福されたあと、天に上げられたことが書かれています。その後、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたと伝えられていました。しかし、使徒言行録1章には、イエスが天に昇ったとき、弟子たちは何も言えないまま、呆然と立っていたことが記されています。彼らは、イエスが天に上げられる前、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい」「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言い残されていました。この「父から約束されたもの」というのが、天から送られてくる聖霊のことでした。

 

Q. キリストがいなくなったあと、弟子たちはどうしていたんですか?

A. キリストが天に昇って見えなくなったあと、弟子たちは、エルサレムの家に泊まって、120人ほどの人たちと一つになって集まっていました。彼らは皆、イエスの母マリアや、イエスの兄弟、他の女性たちと心を合わせて、熱心に祈っていたと書かれています。おそらく「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい」というイエスの言葉に従って、聖霊が降るのを待っていたのだと思います。また、彼らは、

イエスを裏切ったあと亡くなってしまったイスカリオテのユダの代わりに、マティアを新たな使徒として選び直し、約束された聖霊が降る日を待っていました。

 

Q. 聖霊が降った弟子たちは、どんな状態になったんですか?

A. 使徒言行録2章では、キリストが天に昇って10日後の五旬祭の日に、弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったことが記されています。一同は聖霊に満たされると、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。つまり、聖霊が降った弟子たちは、外国の言葉が話せるようになったわけですが、彼らから「自分の国の故郷の言葉を聞いた」とされる人たちには、既に滅亡した国や、滅んでしまった民族の名も挙げられていました。単純に「聖霊を受けたら外国の言葉が話せるようになった」という出来事ではなく、「その場にいない、弟子たちの言葉を聞けるはずのない人たちも、時を超え、場所を超え、キリストの教えと業が語られるのを聞かされた」という出来事になっており、弟子たちが期待さえしていなかった不思議な業に用いられたことが伝えられています。

 

Q. 使徒言行録には、何が書いてあるんですか?

A. 使徒言行録には、その名のとおり「使徒」と呼ばれるキリストの弟子たちを中心とする信仰の先人たちが、イエスの昇天後、どのように神の国の教えを宣べ伝え、世界中に教会を建てて行ったのか、その行動が記されています。また、イエスの弟子たちが、神から約束された聖霊を受けて始まった宣教の業が描かれるため、「聖霊言行録」と呼ばれることもあります。キリストが昇天する前に使徒として選ばれたペトロやヨハネの他に、キリストが昇天してからイエスの幻と出会ったパウロも登場し、エルサレムで迫害を受けた信者たちが、逃げ延びた先で宣教を続け、諸外国にも教会が建てられていった様子が描かれます。

 

キリスト教全般に関する質問

Q. イースターとは何ですか?

A. イースターとは、神の子イエス・キリストの復活を記念する日曜日です。毎年、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、3〜4月にやってきます。キリスト教の最も重要な祭日で、子どもたちのために卵探しゲームをしたり、綺麗な模様を描いたイースターエッグを作って配ったりすることもあります。また、この日に合わせてキリスト教の入信式(洗礼式)を行うことも多いです。

 

Q. ペンテコステとは何ですか?

A. ペンテコステとは、イエス・キリストが天に昇った後、弟子たちへ聖霊が降り、あちこちへ教会が作られていったことを記念する日曜日です。「教会の誕生日」とも呼ばれ、キリストの復活を記念するイースターから50日後の日曜日に祝われます。ペンテコステには、「聖霊」を象徴する赤色の典礼布が使用されることもあります。また、聖霊を受けた弟子たちが、様々な国の言葉で話し出した出来事を思い起こし、外国の言葉で聖書が朗読されることもあります。

 

Q. クリスマスとは何ですか?

A. クリスマスは、神の子イエス・キリストが、この世に生まれたことを記念する日です。「キリストの誕生日」と説明されることもありますが、厳密には「キリストが生まれた日」は分かっていないので、「生まれたことを記念する日」です。聖書の一日は夕方から始まるので、「クリスマス・イブ」は「クリスマスの前夜」ではなく「クリスマス当日の夕方」を意味します。クリスマスには、子どもたちによるキリストの降誕劇(ページェント)が披露されたり、蝋燭に火を灯して賛美歌を歌う燭火賛美礼拝(キャンドルサービス)が行われたり、教会に来られない会衆の家や公園などを巡って賛美を歌うキャロリングなどが行われることもあります。

 

Q. アドヴェントとは何ですか?

A. アドヴェントとは、クリスマス前の4週間を指し、ラテン語で「到来」や「臨在」を意味する言葉です。キリストの誕生を記念するクリスマスの準備をしつつ、天に昇ったイエス様が、再びこの世に来られる日、「来臨の日」「再臨の日」を待ち望んで、祈りを合わせる期間でもあります。そのため、アドヴェントには、クリスマスに向けて、キリストが誕生するまでの出来事や、キリストが再びこの世へやって来る終末の預言について、礼拝の中で語られます。

 

Q. 公現日(エピファニー)とは何ですか?

A. 公現日とは、キリストがこの世に誕生してから、最初に救い主として公に礼拝された日を記念する日で、毎年1月6日に祝われます。この日に礼拝する場合、マタイによる福音書2章が朗読され、東から来た占星術の学者たちが、生まれたばかりのイエス・キリストを拝んだ出来事を思い起こします。教会では、この日までをクリスマスの期間としており、12月25日が終わっても、公現日までクリスマスの飾り付けやツリーをそのまま出しているところも多いです。


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柳本伸良@物書き牧師
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