素直に聞いて検証する【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録17:10〜15
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
キリスト教初のヨーロッパ宣教は、順調とは言い難い形で進んできました。最初に、宣教者パウロが訪れたマケドニア州のフィリピでは、祈りの場所に集まっていた女性たちが洗礼を受けた一方で、金儲けをしていた奴隷の主人に目をつけられ、異なる風習を宣伝しているという理由で投獄されてしまいました。
次に訪れたテサロニケでは、ユダヤ人の一部と多くのギリシア人や身分の高い女性たちが仲間になった一方で、それを妬んだユダヤ人に騒動を起こされ、悪者にされてしまいました。パウロとシラスは、町の役人たちにも警戒され、仲間の手引きで、急かされるようにベレアへ送り出されます。
そして訪れたベレアの地で、パウロは再び、ユダヤ人の会堂へ向かいました。今まで、ユダヤ人の会堂へ行って、穏やかに事が進んだためしはありません。それは、ヨーロッパ宣教が始まる前から見てきたことで、どこへ行っても、ユダヤ人の会堂では反発され、騒動が起き、信者が増えても、それを妬んだ多数の人に攻撃されました。
例に漏れず、直前に訪れたテサロニケの会堂では、一部のユダヤ人が信仰に入ったものの、多数のユダヤ人は、ならず者まで抱き込んで、パウロとシラスの仲間になった同胞を襲い、支配階層の異邦人とやりとりをして、キリスト教徒を追い出しにかかりました。ベレアでも、ユダヤ人の会堂で、同じことになる恐れは十分ありました。
ところが、パウロとシラスは今回も、最初にユダヤ人の会堂へ入って、神様が約束された救い主とは、十字架にかかって復活したイエスである、と語ります。ユダヤ人にそんなこと言えば、また反発を受けて、襲われて、伝道を妨げられ、最悪の場合、殺されるかもしれないのに、彼らは一貫して、最も厄介な者たちを相手にします。
自分たちを追い出した者、迫害した者、攻撃した者を繰り返し訪れ、イエス様を信じて受け入れるように促します。それは、パウロをはじめとする弟子たち自身も、自分が見捨てたイエス様に、受け入れなかった救い主に、繰り返し呼びかけられ、繰り返し訪れてもらった末に、信じるようになった「今」があるからです。
彼らは、困難を承知の上で、今回もユダヤ人の会堂で宣教を始めます。ところが、ベレアの会堂にいるユダヤ人たちは、テサロニケの会堂にいたユダヤ人たちより素直で、熱心に話を聞き、パウロとシラスの言うことを受け入れて、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べるようになりました。
面白いことに、「素直」と言われているベレアのユダヤ人たちは、パウロとシラスの語る言葉をすんなり信じたわけではなく、素直に聞いた上で、まず、聖書を調べていきます。これって簡単じゃありません。今と違って、誰もが文字を読めたわけではありませんし、誰もが聖書を持っていたわけでもありません。
聖書の巻物が設置された会堂へ毎日行って、文字が読める人に朗読してもらいながら、パウロとシラスの語ったメッセージが、神の言葉、聖書の言葉に即しているか、自分たちで検証していくんです。「素直に御言葉を受け入れる」のに「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べる」って、「素直」というより「疑り深い」印象を覚えます。
御言葉と言われたものをそのまま受け入れないで、「本当かな?」と考える。聖書を調べながら、そのとおりかどうか確認する。一見、「素直な信仰」「純粋な信仰」から離れているように思われるかもしれませんが、これこそ大事な信仰のプロセスなんです。パウロとシラスも、彼らの検証を止めません。
「私の言うことを疑うのか?」「神の業、神の言葉と言っているのに信じないのか?」と脅さないで、ベレアの人々が自分たちで考え、問いかけ、信じていくのを辛抱強く見守ります。自分たちの語った言葉がそのとおりかどうか、聖書に即しているかどうか、みんなが調べて考えるのを促します。
それは、パウロとシラスに対する不信感や、イエス様への不信仰を招くどころか、むしろ、信じて従う人を増やしていくことになりました。実際、毎日、聖書を調べていた彼らの周りで、多くの人が信じていきます。ユダヤ人ばかりか、ギリシア人の女性や男性も、少なからず信仰に入っていきます。
本当かな?……と調べていたのに、疑いをもって検証したのに、その問いかけが、聖書に尋ね求める姿勢が、周りの者まで信仰に入る、救いに至る真理の道になっている、宣教の業になっている……なかなか奥深い話です。同時に、信者が増えると、やっぱり、反発が待っています。
なんと、テサロニケでパウロとシラスを攻撃したユダヤ人たちが、ベレアの町にも押しかけて、群衆を扇動し、騒がせ始めます。そこで、ベレアの信者たちは、直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせました。ところが、シラスとテモテはベレアに残り、パウロから「できるだけ早くアテネへ来るように」と指示があるまで、留まり続けました。
久しぶりに、テモテの登場です。テモテはギリシア人の父親とユダヤ人の母親の子で、パウロがリストラから連れてきた青年でした。ヨーロッパ宣教にも同行していたはずですが、なぜか、パウロやシラスがフィリピで投獄されたり、テサロニケで襲われそうになったときには、名前が一切出てきません。
もしかしたら、以前、マルコと呼ばれるヨハネが、パウロとバルナバから離れ、宣教へ一緒に行かなくなったように、テモテも一時、パウロとシラスから離れ、一人だけ逃げたり隠れたりしていたのかもしれません。けれども、ベレアで再び登場した彼は、逃げたり隠れたりするどころか、危険地帯となった町に、自らの意志で留まります。
いつも一緒にいなかった人が、消えていた人が帰ってくる。かつて、隠れていた人が、逃げ出した人が、我が身を晒す。不思議な変化がここでも起きていました。イエス様の教えと業を語るとき、神の言葉を、良い知らせを伝えるとき、宣教される者も、する者も変わっていきます。
拒んでいた者が受け入れるように、隠れていた者が身を晒すように、疑っていた者が信じるように、一人一人が導かれてきました。ある瞬間、ある時点で、信じていなければ、逃げ出していれば、その人の救いが、消え去るわけではありません。神様はどこまでも、私たちの不安に、問いに、弱さに付き合い、新しい生き方をもたらしてくださいます。
滅びに定められた者、神の国から締め出された者、救いの道から外れた者……そのように思われた者たちへ、死を超えて出会われるイエス様は、繰り返し、訪れてくだいます。あなたも、あなたが諦めている者も、一緒に神の国へ入ることが期待できない者たちも、そのまま放置されることはありません。
この方は執念深く、憐れみ深く、冷めることのない熱情を持った神だからです……「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように(テサロニケの信徒への手紙二3:16)」アーメン。
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