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やってられるか【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書15:25〜32、コロサイの信徒への手紙3:12〜17

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

ある人に息子が2人いました。弟の方が父親に「自分が受け取るはずの遺産を先に分けてくれ」と言いました。まだ父親が生きているのに、とんでもない言い分です。ところが父親は次男に言われるがまま、財産を息子たちに分けてやります。あまり良い父親に見えません。普通は、弟を嗜めたり、諭したりするのが、父親の役目に思えます。
 
案の定、下の息子は何日も経たないうちに、全部を金に換えて遠い国に旅立ち、遊び尽くして、財産を無駄遣いしてしまいます。何もかも使い果たしたタイミングで、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は食べるのにも困り始めました。仕方なく、その地方に住む、ある人のところに身を寄せますが、豚の世話をするくらいしか仕事がありません。
 
しかも、飢饉のせいでろくに食べ物もなく、彼は豚の餌でもいいから腹を満たしたいと思います。そこでようやく、弟は我に帰って、実家に戻って父親に謝り、雇い人の一人にしてもらおうと考えます。反省したように見えますが、「こう言えば父親は許してくれる」という打算がないとも言えません。
 
本当に態度を入れ替えて、真面目な生き方が身につくまで、厳しく、見守る必要があるのを感じます。ところが、父親は帰ってきた息子を見つけて憐れに思い、厳しく接するどころか、走り寄って首を抱き、接吻します。財産を無駄遣いして帰った息子に、一番良い服を着せ、指輪をはめ、肥えた子牛を丸ごと焼いてご馳走します。
 
息子を諭して、反省を促す姿はありません。むしろ、「食べて祝おう」と言って、僕たちに音楽や踊りを舞わせ、どんちゃん騒ぎを始めます。一方、その日の畑仕事から帰ってきた長男は、このことを知って腹を立てます。弟の帰りを知らされず、自分を放置したまま宴会を始めた父親に、猛烈な怒りが湧いてきます。
 
そりゃそうです。彼は、何年も父親に仕え、真面目に暮らし、言いつけに背いたこともありませんでした。しかし、自分が友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかった父親が、財産の半分を無駄遣いした弟には、肥えた子牛をご馳走してやるんです。やってられるか……という話ですよね。
 
すると、息子をなだめにきた父親はこう言います。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」……当たり前でしょうか? どれくらいの人が共感するでしょうか?
 
おそらく、現代社会で、この父親の言うことに共感する人は少ないと思います。祝宴を開いて喜ぶ前に、父親としてやることがあるんじゃないか? と感じます。イエス様がこの譬えを語った当時のイスラエル社会でも、共感した人は少なかったでしょう。父親として正しい姿というより、間違った姿に見えたでしょう。
 
果たして、兄はこの後、家の中に入れたんでしょうか? 一緒に弟の帰還を祝えたんでしょうか? そう簡単に父親の言葉に納得できたとは思えません。私たちだってそうですよね? 譬え話が綺麗な結末で終わらないのは、兄の納得を記さないのは、彼に、自分を重ねた私たちが、納得できない現実を知っているからかもしれません。
 
おかしいでしょう? それでも父親ですか? やってられません!……親子喧嘩の勃発です。驚くべきことに、この父親に譬えられているのは、父なる神、もしくは、イエス様自身です。弟に自分を重ねれば、ありがたい話かもしれませんが、多くの聞き手は、兄に自分を重ねます。父親に、神様に、イエス様に対して怒る、彼の姿に共感します。
 
この譬え話を読んだ後で、同じ日に聖書日課で指定されているコロサイの信徒への手紙を読むと、ますます、やってられなくなるでしょう。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」
 
分かりました、と素直に頷くことができません。がんばります、と返事をすることができません。自分よりも、愚かで、雑で、乱暴な人の方が、愛されているように感じます。良心に従い、真面目に生きている自分の方が、愛されていないように感じます。柔和に、寛容に、なれません。どうして自分の方が赦し、耐えなければならないのか分かりません。
 
神様、弟を赦さなきゃならないでしょうか? 自業自得だと思わないで、憐れまないといけないでしょうか? あなたのあの息子がいる家に、入らないといけないでしょうか? 神の国に、あいつがいることを受け入れないといけないでしょうか? 私には荷が重いです。まだ、この家には入れません。それとも、私の方を家から閉め出しますか?
 
イエス様のたとえ話は、私たちの反応を潰しません。このように続ける余地を残しています。その場で父に納得し、弟を受け入れ、一緒に食卓へ着く、ご立派な兄の姿は描かれません。むしろ、父親に対して、長男が、私たちが、続ける言葉を待っています。怒りを、嘆きを、問いかけを、投げかけるのを待っています。
 
本当に、私は愛されているんですか? むしろ、放置され、傷つくままにされてませんか? 何年もあなたに仕え、言いつけに背いていないのに、私にばかり憐れむように、赦すように、耐え忍ぶように、求めてませんか? あなたは弟を選び、愛して、家に迎えたけれど、私のことは、そんなふうに迎えてくれないんじゃないですか?
 
声なき声に対する、父親の応答も記されません。しかし実は、弟と違って、真面目に生きたのに、苦しみを耐え忍ばされ、愛されなかったように見える、兄と同じところに下って、応答された方がいます。それは、罪を犯してないにもかかわらず、神様に従い続けたにもかかわらず、十字架にかけられたイエス様です。
 
神の国を受け継ぐ長男なのに、神様に守ってもらえず、人々に殺されてしまいます。何度も罪を犯してきたイスラエルの民は、繰り返し敵の脅威から守られてきたのに、イエス様は鞭打たれ、磔にされ、槍で突かれてしまいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」その言葉は、父なる神に納得できない私たちの声と重なります。
 
イエス様は、本当に、私たちと同じところに来てくださったんです。私たちが嘆き、怒り、納得できないと訴えるように、自分も一緒に嘆き、怒り、問いかけてくださるんです。そして、自分を死んだまま、見捨てられたままにせず、復活させた神の愛を、本当に、我が子を愛してやまない神の姿を証ししたんです。
 
イエス様が復活させられたとき「死んでいたのに生き返った」と喜び祝う父の言葉は、罪を犯した弟に対してだけでなく、何年も自分に仕え、言いつけに背かなかった兄にも、当てはまる言葉になりました。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」という聖書の言葉は本当です。
 
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけられない今のあなたも、神の国へと迎えられる、死から命へ招かれている、大切な子どもの一人なんです。イエス様は、全ての人を自分の兄弟姉妹と呼びました。あなた自身と重なって、あなたと共に、神の国へ帰るため、この世へ下ってくださいました。やがて私たちは、同じ祝宴に招かれます。
 
自分が聖なる者、愛されている者であることを、今から知っていきなさい。神様に目を留めてもらえないと思ったとき、あなたと重なるように遣わされた、イエス・キリストを呼びなさい。この方は、既にあなたの中にいて、前に、隣に、後ろにいて、一緒に神の国を受け継ぐ準備をしています。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿りますように。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。