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もっと気になるキリスト教(10)【キリスト教ABC講座】

聖書の内容やキリスト教に関する知識をQ&A方式でザックリ説明している講座です。

 

旧約聖書に関する質問

Q. 旧約聖書に「食べてはいけない」と書かれているのはどんなものですか?

A. レビ記11章と申命記14章では「ひづめが分かれ、反すうするもの」は食べてよい生き物とされ、「ひづめが分かれているだけ」「反すうするだけ」のものは食べてはならないとされています。そのため「らくだ、野兎、岩狸、いのしし」などは食べてはならないことになっています。「豚を食べてはならない」と言われているのもこのためです。また、「ひれや鱗のない魚」も食べてはならないとされています。空を飛ぶものに関しては、腐肉を食べる鳥やこうもり、「羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫」は食べてはならないとされています。ただし、地面を跳躍するのに適した後ろ脚を持つもの「いなごの類」は食べてもよいとなっています。なお、基本的に生き物の死骸へ触れることは許されず、食用の家畜以外で、屠殺する前に死んでいた動物も食べてはならないことになっています。これらの規定は「食べることで悪影響があること」を意味するわけではありません。神殿で犠牲をささげて礼拝することができない者たちも「祭儀的な汚れを避ける」食物規定を共有することで、信仰生活を支え合う仲間として生きていくことができるように、大事にされてきた掟です。

 

Q. 旧約聖書で「禁じられていること」を挙げると何がありますか?

A. 旧約聖書では、祭儀的に「汚れている」とされた状態で、神に犠牲をささげたり、他の人に触れて「汚れを移してしまうこと」を禁じる規定が出てきます。「食べてはならないもの」の規定も「祭儀的に汚れること」を避けるための掟です。たとえば、動物や人の死骸に触れてしまった場合は、一定期間、祭儀に参加できません。また、体の一部が皮膚病になってしまった場合も、症状が治まったと祭司に宣言されるまで、一定期間隔離され、祭儀に加わることができませんでした。出産や生理など、体から出血がある場合も、一定の「清めの期間」が設けられ、その間は聖所に行くことができません。ただし、これらの禁止事項は、隔離された人々が、祭儀に復帰するため、共同体に回復されるための手順がセットになっており、重きが置かれているのは「復帰と回復のための手順」です。また、近親相姦や不倫など厭うべき性関係を持つこと、偶像を作って拝むこと、占い・呪術・霊媒・口寄せ・人身供犠を行うこと、利用することも禁じられていました。一方で、これらの禁止事項を破った者が、問答無用で直ちに罰を受けたかというと、そうでないエピソードも出てきます。また、貧しい者や外国から来た寄留者を蔑ろにする行為も禁じられていました。

 

Q. 現在も、キリスト教徒は旧約の食物規定や禁止事項を守っているんですか?

A. 食物規定をはじめとする旧約聖書の禁止事項は、外国で捕虜となったり、神殿で犠牲をささげることができない者たちも、同じ神への信仰を守る仲間として、支え合って生きていくことができるように、大事にされてきた掟です。しかし、それらの掟を字義通り、杓子定規に当てはめて、守り続けることが求められたわけではありません。イエス・キリストは、旧約聖書に書かれていることを字義どおり守ることにこだわって、厳密に掟を守れない人たちを厳しく咎めていた律法学者やファリサイ派に、神が求めているのはそういうことじゃないんだと訴え、時には禁止事項を破って、人々と関わっていきました。イエスの弟子たちも、後に、キリストを信じるようになった異邦人へ、律法に基づくユダヤ人のライフスタイルを押し付けるのではなく、互いに尊重し、愛し合う生き方を重視して、一緒に信仰生活を守るようになりました。そのため、キリスト教徒は旧約聖書に書いてある掟をそのまま全て守っているわけではありません。かつて、神に命じられたことを振り返って「隣人を自分のように愛し」「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛する」ために、現代ではどのような生き方が求められるか、その都度考えながら生活します。

 

Q. キリスト教徒は、創世記の記述があるから進化論を否定しているんですか?

A. キリスト教徒の中には、創世記に書かれていることと矛盾する「進化論」を否定して、「聖書に書かれていることは、科学的にも歴史的にも正しい」と主張する人たちも一部います。一方で、「聖書に書かれていることは、誤りのある人間によって記された『神の言葉の証言』で、科学的・歴史的な正しさとは必ずしも一致しない」という読み方をしているキリスト教徒も多くいます。私は、聖書を「単なる記録や事実」として読もうとするのではなく「神と人との関係を様々な表現で記したもの」「誤りや限界のある人間を用いて記された、神の言葉の証言」として受け取るのが、誠実な態度だと思っています。

 

Q. 旧約聖書にも、神の子イエス・キリストについて書いてあるんですか?

A. 旧約聖書は、「イエス・キリストがこの世に生まれる前の話」を記していますが、新約聖書で何度も引用されているように「救い主の誕生」「新しい王の出現」を預言していると捉えられている箇所が幾つかあります。たとえば、マタイによる福音書では、イザヤ書7章の「インマヌエル預言」を「イエス・キリストの誕生の予告」として捉え、イザヤ書53章に出てくる「苦難の僕」の姿を「キリストが全ての人の罪を贖い、十字架にかかってくださったこと」を預言したものと受けとめられています。

 

Q. 旧約の掟に出てくる「奴隷」は、現在イメージする奴隷と同じですか?

A. 古代イスラエルにおける奴隷は、戦争で捕虜になった者や、親の貧しさのため売られた者、債務のため自ら身を売った者などが存在しました。しかし、旧約聖書では、イスラエルの祖先がエジプトで奴隷として苦しみを受けたことを強調し、奴隷となった者に対して寛大な態度を取ることが求められました。特に、同じ民族の債務奴隷については、7年毎ないし50年毎に解放することが定められ、親族が債務を肩代わりして当人を買い戻す権利など確保されました。そのため、アフリカから連れてこられ、生涯そのステータスを強要された、いわゆる「黒人奴隷」のイメージとは少し違います。ただし、「神と人との関係」を「主人と奴隷の関係」で象徴している箇所を用いて、無批判に奴隷制度を容認・維持することにキリスト教徒が加担してしまった歴史もあり、それらの歴史を批判的に捉え直す作業も行われています。

 

Q. 旧約聖書では、ユダヤ人以外(異邦人)は排除するように教えているんですか?

A. 旧約聖書では、本当の神ではない「偶像の神」や「異教の神々」を拝まないよう厳しく禁じられています。そのため、それらを持ち込む異邦人との接触や結婚も厳しく禁じる箇所が出てきます。一方で、イスラエルの民が、かつてエジプトで奴隷だったことを思い起こし、外国から来てイスラエルに留まっている寄留者を蔑ろにしないよう、親切にもてなすことも教えられています。また、神から「地上に彼ほどの者はいまい」と言われた、無垢な正しい人ヨブは、ウツの地に住む異邦人で、神から祝福を受けていました。加えて、イエス・キリストの系図に出てくるボアズは、モアブの地にいた異邦人ルツを娶り、カナンの地に住む異邦人であった遊女ラハブは、イスラエル人を助けた一族として共同体に迎えられる者となりました。実は、異邦人との接触や結婚が、常に認められなかったわけでも、常に咎められていたわけでもありません。

 

Q. 神に「滅ぼし尽くす」と言われた人たちは、本当に滅ぼされているんですか?

A. 実は、繰り返し神に背いて、最も多く「滅び」を宣告された人々は、イスラエルの民でした。しかし、神は何度も「滅ぼし尽くす」と言いながら、彼らが裁きを免れるよう、悔い改めを求めました。また、厳しい裁きを下す場合も、徹底的に滅ぼし尽くすことはせず、再出発できるように「残りの者」を選んできました。ヨナ書においては、悪人に対し、預言者を通して「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と宣言しますが、人々が悔い改めたのを見て、神は宣告した災いを撤回します。このように、神が「滅ぼし尽くす」と宣言するとき、実際には、人々を滅ぼし尽くすことがないように、裁きを免れるように、どこまでも手を伸ばす神の姿が、聖書には幾度も描かれます。

 

Q. なぜ、信仰者の犯した過ちや情けない姿まで聖書に記されているんですか?

A. 聖書が作られた目的は、神を信じる人の立派な姿や、模範的な姿を記すことではありません。むしろ、神を信じ切れなったり、神に背いてしまったり、信じているのに過ちを犯してしまう人々に、どこまでも付き合い続け、働きかけてくださる、憐れみ深い神の姿を著すことが、聖書の書かれた目的です。「正しい者が救われる」のではなく「正しくない者が、正しい者として救われるように、神がどこまでも付き合ってくださること」を証ししているのが聖書なんです。

 

Q. 預言者の言葉は、どこまでが神の意志で、どこからが預言者個人の思いなんですか?

A. 実は「神が預言者に語った言葉」と「預言者が人々に語った言葉」が一致しない聖書の記述は多々見られます。預言者の言っていることが、どこまで神の意志と同じで、どこから預言者個人の思いなのか、厳密に判断することはできません。また、ヨナ書で見られるように、神が宣告された災いを撤回されることもあるので、預言者の言った言葉が成就するか、しないかで、本当に神の言葉かどうかを判断することもできません。ある人の予言が当たったかどうかで、簡単に、その人の言葉を「神の言葉」「神から預かった言葉」と判断することはできない、という前提を覚えておいてもらえると嬉しいです。

 

新約聖書に関する質問

Q. キリストの昇天後、弟子たちはどんな奇跡を起こしたんですか?

A. キリストの昇天後、聖霊を受けた弟子たちは、様々な国の言葉で語り出し、キリストの教えと業を多くの人に伝えていきました。また、神殿の前で足の不自由な男を癒したペトロをはじめ、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人たちが使徒たちによって癒されました。それは、困っている人、苦しんでいる人に寄り添ったキリストの業を引き継ぐものでもありました。また、ペトロたちは、大祭司やサドカイ派に妬まれ、捕えられ、牢に入れられてしまいますが、夜中に天使が訪れて、外に連れ出され、再び神殿の境内で教え始めるという出来事も起こります。しかし、目に見える不思議な出来事以上に、捕まることを恐れて閉じこもっていた彼ら自身が、再び捕まる危険が高い神殿の境内で語り続けるようになったこと、イエスに付きまとう病人を追い払おうとした彼ら自身が、運ばれてくる病人を癒やし続けるようになったこと、そういった変化に、神の導きを感じさせられます。

 

Q. 最初の頃の教会は、どんなふうに始まったんですか?

A. 最初の頃の教会は、聖霊を受けた弟子たちによって、洗礼を受けた人々が集まって始まりました。彼らは使徒の教えを受け、パンを裂いて分かち合い、祈ることに熱心で、財産や持ち物を売り払って、おのおのの必要に応じて分け合っていました。当初は、みんなが決まった日に教会へ集まるというよりも、家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をし、神を賛美するような共同生活に近かったため、「家の教会」とも呼ばれます。そこからだんだんと、普段の食事と礼拝を分けるようになり、キリストが復活した日曜日に一箇所へ集まるようになり、現代の教会で行う礼拝の形へ徐々に近づいていきました。実は、教会の始まりは、「みんなで何かを分け合うこと」「食事を共にすること」と切っても切れない関係があったんです。

 

Q. 最初の殉教は、どのように起きたんですか?

A. 初代教会で最初に殉教した人物は、意外にも、キリストに選ばれた12使徒の一人ではありません。使徒たちが神の言葉を伝えることに専念できるよう、代わりに食事の世話をするよう選ばれた7人のうちの一人、ステファノという人物でした。ステファノは、もともと食事の世話をするため選挙で選ばれた、ギリシア語を話すユダヤ人でしたが、食事の世話係に留まらず、知恵と霊によって語らされ、不思議な業としるしを行い、使徒たちと変わらない働きを担うようになっていきました。しかし、彼との議論で歯が立たなかった人々に妬まれ、「神を冒涜する者」と訴えられ、裁判にかけられてしまいます。ステファノは、自分を訴えた者たちに、悔い改めてキリストを信じるように語りますが、人々は激しく怒りに燃えて、ステファノを最も残酷な石打ちの刑にかけてしまいます。彼は、十字架につけられたイエスと同様、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と人々をとりなし、死んでいきました。この日を境に、エルサレムの教会は大迫害を受け、使徒たちの他は皆、ユダヤとサマリアの地方へ逃げてしまいました。

 

Q. 迫害を受けてエルサレム教会から逃げた人々は、その後どうしたんですか?

A. ステファノの処刑をきっかけに、迫害を受けたエルサレム教会は、使徒たちを除く全員がいなくなるという壊滅的な状態に陥りました。しかし、ユダヤとサマリアの地方へ散っていった人々は、ただ迫害から逃げるだけでなく、イエスの教えと業を告げ知らせながら巡り歩いていきました。ステファノと同じく、食事の世話をする者として選ばれたフィリポも、かつて、キリストを拒絶したサマリアの村で宣教を行い、多くの人々に洗礼を授け、ユダヤ人でない異邦人が集まる教会ができていきました。その後、使徒たちもエルサレムから諸外国へやってきて、キリストの教えと業を伝えてまわり、迫害をきっかけに、世界中へキリスト教が広がっていくことになりました。

 

Q. キリスト教を世界に広めた宣教者パウロは、どんな人物だったんですか?

A. パウロは、サウロやサウルとも呼ばれ、もともと、キリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。使徒言行録には、彼が殉教したステファノの処刑にも賛成していたことが記されています。しかし、キリスト教徒を捕まえて処刑するため、ダマスコへ行く途中、復活したキリストの幻と出会い、自分が迫害していたイエスこそ、人々が待ち望んでいた救い主であることを知らされます。パウロに現れたキリストは、自分を信じる人々を迫害していた彼に向かって、異邦人や諸国の王に、神の言葉を伝えてくれと、重要な使命を与えます。そして、時が来るまで、彼の目は見えなくされてしまいました。やがて、パウロはダマスコへ連れて行かれ、そこで、自分が迫害していたキリストの弟子に祈ってもらい、再び目が見えるようになりました。彼は、キリストを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者へ180度変えられて、世界宣教の先駆者として遣わされるようになりました。

 

Q. パウロが仲間になったとき、弟子たちはどんな反応をしたんですか?

A. パウロがキリストを信じて回心したあと、多くの弟子は、彼を疑い、警戒していました。今まで自分の仲間を捕まえて、処刑していた人のことを、いきなり信頼することはできず、罠だと思う者もいました。彼をキリストの弟子としてふさわしくないと主張する者もいたでしょう。しかし、幻の中で神に呼びかけられ、パウロを仲間として受け入れるようになったアナニアや、バルナバなどが間に入り、徐々に弟子たちの間で、受け入れられていきました。

 

Q. パウロは投獄されたり、軟禁状態になったとき、どうやって伝道したんですか?

A. パウロは、ユダヤ人と異邦人の双方から迫害を受け、何度も投獄され、晩年にはローマで軟禁状態になりました。そのため、人生の後半は、直接誰かを訪ねたり、直接教会へ赴くことはできず、手紙を書き送ることでしか、宣教することができませんでした。ところが、それらの手紙はいくつもの教会で回覧され、時代を超えて読まれるようになり、多くの人々の信仰を支えるものとなりました。また、軟禁状態になっても、パウロを訪ねてくる者が後を絶たず、彼らを励まし、手紙を預けることができました。このようにして、新約聖書の4分の1を占める手紙のもとが残されていったんです。

 

Q. 初代教会は、理想的な教会の姿だったんですか?

A. 使徒言行録2章には、信者たちが皆一つになって、全ての物を共有し、皆で分け合っていたことが書かれています。しかし、間もなく、献金の代金をごまかす者が現れたり、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人との間で扱いに差が出てしまったり、次々と問題が出てきます。また、宣教者パウロが書いたとされる手紙にも、人間関係や神学論争など、様々な問題が初代教会に起きていたことを窺わせる文書が出てきます。聖書に出てくる初代教会の姿は、手放しで「理想的」「模範的」と言うことはできません。むしろ、現代の教会とも重なる様々な問題を抱えた信徒の群れに、神様がどのように付き合い続けてくださったのか、私たちに知る機会を与えてくれます。

 

Q. 黙示文学とは何ですか?

A. 黙示というのは、「隠されたことを明らかにする」という意味で、象徴的な表現を通して「天上の秘密」や「世の終わり」「終末」に関する秘密を明らかにする文書を「黙示文学」と言います。旧約聖書では、ダニエル書の他に、イザヤ書・ゼカリヤ書といった預言書の一部、新約聖書では、ヨハネの黙示録の他に、「小黙示」と呼ばれる福音書の一部が、黙示文学として挙げられます。

 

Q. ヨハネの黙示録に書いてあることは、未来に起きることなんですか?

A. ヨハネの黙示録は、キリスト教徒がローマ帝国の迫害に遭っている時期にまとめられ、救いの訪れを信じて待つよう、同胞を励ますために語られてきた言葉です。そこに書かれてあることをどのように捉えるかは、キリスト教徒の間でも幅があります。たとえば、「黙示録の預言は既に成就し、1〜2世紀頃の過去に起こったことが書かれている」という立場もあれば、「預言は未来に成就することで、まだ起こっていない」という立場もあります。そもそも「預言に書かれていることは時代を超えた真理で、特定の歴史ではない」という立場もあります。いずれにしても、黙示録の記述は、未来の予測に重きを置かれているものではありません。現代の出来事を当てはめて、終末に起きる出来事がどこまで成就し、この後何が起こるのか、厳密に予測することもできません。終末預言は、苦難が次々と降りかかり、世界が終わりに向かっているようにしか見えないときも、「神の救いの計画は滞ることなく進んでいる」という励ましをもたらす文書であり、未来を予測するための道具ではありません。マタイによる福音書24:36で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」とキリストご自身が言っているように、終末の時期を特定することは、そもそもキリスト教徒に求められていないんです。


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柳本伸良@物書き牧師
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