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板挟み伝道【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録13:13〜31

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「板挟み伝道」

キリスト教を世界に広めたパウロたちの宣教旅行は、当初から、様々な妨害に遭いました。キプロス島では、魔術師エリマという偽預言者によって、地方総督セルギウス・パウルスが信仰に入るのを邪魔されてしまいます。しかし、聖霊に満たされたパウロは、かつて、自分がイエス様からされたように、偽預言者の目を見えなくし、時が来るまで、日の光を見ないようにしてしまいます。
 
それを見た総督は、パウロの語るイエス様の教えと業に非常に驚き、無事に信仰へ入っていきました。いきなり困難に直面したものの、最初の滑り出しは順調なように見えました。ところが、パフォスから船出して、パンフィリア州のペルゲに着くと、予想外の事件が起こります。それは、助手として連れてきたマルコとも呼ばれるヨハネが、パウロたちと別れて、エルサレムへ帰ってしまった事件です。
 
この助手の名前が出てきたのは、使徒言行録12章の後半で、牢に囚われていたペトロが、天使によって救い出され、仲間のもとへ戻ってきたときです。まさに、ペトロの無事を祈って、みんなの集まっていた場所が、マルコと呼ばれていたヨハネの実家でした。その後、大飢饉に苦しむエルサレムの人々へパウロとバルナバが援助の品を送り届けた際、2人はヨハネを仲間にし、アンティオキアへ連れて帰っていきました。
 
聖書では、彼について名前以外ほとんど描かれていませんが、このヨハネという人物はおそらく、使徒たちから大きな期待を受けていたんだと思います。「パウロとも呼ばれるサウロ」と並んで「マルコと呼ばれるヨハネ」と言われたり、パウロがバルナバにアンティオキアへ連れて行かれたように、ヨハネも2人にアンティオキアへ連れて行かれたり、どうやら、使徒たちには、彼を「第二のパウロ」として育てたい思いがあったようです。
 
けれども、エルサレムからアンティオキアへ、アンティオキアからキプロス島へ、連れて行かれた助手ヨハネは、パンフィリア州のペルゲに着いた瞬間、一行と別れて、自分だけエルサレムへ帰ってしまいます。あっさり3行で書かれていますが、一緒に過ごしてきた仲間にとって、特に、助手として彼を連れていたパウロとバルナバにとって、だいぶ、ショッキングな出来事です。
 
なにせ、大飢饉のときに出会い、援助の品を送って仲間にし、アンティオキアで聖霊を受けた者たちと一緒に過ごし、キプロスで魔術師エリマとの対決も見せたのに、期待していた青年が、自分たちと別れて一人で帰ってしまうんです。共に困難を乗り越えてすぐ、奇跡を目の当たりにした直後、別れてしまうんです。
 
まるで、強豪校との試合に勝って喜んでいたら、その直後、仲間の部員が辞めていくような切なさです。なぜ、ヨハネが彼らと別れ、自分だけ帰ってしまったのか、理由は一切記されません。もしかしたら、この次に行くピシディア州のアンティオキアへ入ることが嫌だったのかもしれません。
 
バビロニアがペルシア帝国に滅ぼされて以降、多くのユダヤ人は世界各地に離散して、それぞれの町に会堂を立て、その門戸を広く異邦人にも開放していました。ピシディア州のアンティオキアでも、会堂で語るパウロの言葉を、多くのユダヤ人と改宗者、そして、異邦人が喜んで聞く様子が描かれるので、誰でも入って聞くことができたんでしょう。
 
エルサレムから来たヨハネにとって、自分たちユダヤ人と一緒に、異邦人が神の言葉を聞くことは、共に賛美と祈りを合わせることは、まだ抵抗が強かったのかもしれません。あるいは、単純に、パウロとバルナバが人々と対決する様子、偽預言者に起こった出来事を見て、自分もどうなってしまうのか、怖くなったのかもしれません。
 
理由はなんにせよ、マルコと呼ばれるヨハネは、パウロとバルナバの一行に、ついていけなくなりました。パウロの第一回宣教旅行における最初の分裂です。しかも、宣教旅行の途中で仲間が別れてしまったことは、エルサレムへ帰ったヨハネによって、すぐ、みんなへ伝わることになります。
 
下手すれば、エルサレム教会の人々に、「やっぱり、アンティオキアの教会と、異邦人の信徒たちと、一緒にやっていくことはできない」と思われてしまいかねません。けっこう気分が重くなる出来事です。そんな中、たどり着いた町の会堂で、パウロたちはこう頼まれます。
 
「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」……いや、どちらかと言うと、励ましが欲しいのはこっちの方です。ちょっと前に、仲間が別れてしまったんです。私たちは、上手くやれなかったんです。信仰の輪を広げたいのに、分裂させてしまったんです。やらかした後なんです。
 
既に、会衆の間でもざわめきが起こっています。「今、メッセージを頼まれたパウロって奴は、エルサレムで殺されかけたユダヤ人じゃなかったか?」「キリスト教を迫害していたのに、寝返ったって聞いた気がする」「最近、こっちでも仲間割れしたらしい」「いったい何が話せるって言うんだろう?」「何が教えられるって言うんだろう?」
 
目の前の会堂には、ユダヤ人もいれば、異邦人もいます。イエス様について知りたい人もいれば、警戒している人もいます。誰に向けて話せば、どんなふうに語れば、みんなが離れずに済むか、ここから追い出されずに済むか、自分のすることに自信がありません。けれども、パウロは立ち上がり、おそらく自分たちのように、衝突したり、別れたりするみんなに向かって語りかけます。
 
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」と……パウロが話し始めたのは、何か、会衆の模範となるような、理想とされるような、お手本についてではありませんでした。自分たちが歩んできた歴史、ありのままの姿でした。神様によって選ばれ、神の民として立てられ、導かれる中、忍耐されてきた、自分たちの姿でした。
 
かつて、神様を蔑ろにして、約束を破って、荒れ野を40年間さまよいながらも、守られ続けた自分たち。神様に選ばれながら、聖霊を受けながら、過ちを繰り返しつつも、導かれてきた自分たち。同じ民の中で、何度も争ったり、間違えたりしながら、再び一つにされた自分たち。
 
パウロが会衆を励ますために語り始めたメッセージは、「私たちはすごい」「あなたちはすごい」という分かりやすい話ではありませんでした。むしろ、自信を無くしそうな歴史を思い出させるものでした。
 
けれども、これだけ失敗をしてきた自分たちに、過ちを犯してきた自分たちに、神様はなお、信頼し、期待し、ご自分の民として呼びかけ、新しく送り出してくれるんだ……まさに今、自分の仲間と別れてしまった私自身を、ここへ遣わしてくださったように。これを励ましと言わずに何と言おう? これを希望と言わず何と言おう? そんな思いを溢れさせます。
 
神様が遣わした独り子を見捨ててしまった自分たちにも、戸に鍵をかけ、イエス様を締め出してしまった自分たちにも、イエス様の仲間を迫害していた自分自身も、こうして、復活の証人として送り出されている。あのとき別れた人々が、あのとき立ち去った自分たちが、また新しく立てられている。これからも、この先も、そうやって導かれていく。
 
ユダヤ人と異邦人の間で、キリスト者の間で、板挟みになりながら、言葉を絞り出すパウロたちから、私たちも思い出させられます。上手くできない私たちも、失敗している私自身も、今、ここから、送り出されていることを。もう、ここから、新たに証人として立てられていることを。共に、イエス様のもたらす励まし、慰め、力を受け取りましょう。 


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