風と炎と爆音と【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 使徒言行録2:1〜13
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
ペンテコステが「教会の誕生日」と言われるようになったのは、この日に天から聖霊が送られ、イエス様の弟子たちが力を受けて、各地へ教会を建てていった、始まりの日を記念するからです。もともと、彼らが暮らしていたイスラエルの中だけでなく、天下のあらゆる国の言葉で、世界中の人々に向けて、イエス様の教えと業が語られるようになった。
それは、十字架にかけられて殺されたイエス様が、3日目に復活し、40日間、弟子たちと共に過ごしたあと、天へ昇られて10日目のことでした。キリストの復活を記念するイースターから、ちょうど50日目の出来事です。ペンテコステという言葉は、まさにこの「50日」から来ています。
この日、多くの教会では、「聖霊」を表す赤色の布で礼拝堂を飾ったり、全ての窓を開け放して建物の中に風を入れたり、色んな国の言葉で聖書を朗読したりして、教会の誕生を祝います。クリスマスやイースターと並ぶ、キリスト教の三大行事として、みんなで礼拝を行います。
けれども、コロナ禍に入った当初、私たちは、イースターの礼拝にも、ペンテコステの礼拝にも、集まれなくなりました。賛美歌も満足に歌えませんでした。2年目、3年目も集まる人数を制限したり、時間を短縮したりして、小さく、小さく、この日の出来事を振り返っていました。
4年目に入った今年は、ようやく人数を制限せずに、時間も短縮せずに、ほぼ通常どおり、集まれるようになりました。現在も、礼拝後のランチサービスは休止中ですが、礼拝の中でパンとぶどう液をいただく「聖餐式」や、パンと水をいただいて神の祝福を分かち合う「愛餐式」を行えるようになりました。
ついに、「教会の誕生日」らしい集まり方ができるようになりました。しかし、今なお、家から出られず、みんなと集まるどころではない人もいます。新型コロナの後遺症で体が弱っている人、子育てや介護で家を空けられない人、日曜日も仕事を休ませてもらえない人、高齢になり運転ができなくなった人……それだけではありません。
日本キリスト教団出版局から発行された『信徒の友』を見ていると、伝道所によっては今も、月に一回しか礼拝が開けないところがあります。牧師を招聘できず、聖餐式や愛餐式ができないところもあります。合併に伴って、今まで通えていた信徒が通えなくなったところもあります。
地震や、豪雨や、噴火によって、災害に巻き込まれ、通常の礼拝ができなくなり、避難先で祈りを合わせておられる方もいます。戦争が始まって、紛争に巻き込まれて、自分の誕生日さえ祝えなくなった人もいます。外へ出るどころじゃない、歌を歌うどころじゃない、身を潜めて、じっとしていないと、命の危険にさらされる。
そんな中、今日を迎えた人たちにとって、ペンテコステのエピソードは、何か力をもたらすでしょうか? イエス様の弟子たちに、聖霊が送られた出来事は、何か励ましになるでしょうか? めちゃくちゃな状況で、落ち着かない環境で、過ごさざるを得ない人たちに、聖霊は留まってくれるんでしょうか?
実は、今なお、満足に礼拝できない状況に置かれた人たちこそ、聖霊が注がれる希望を持つことができるんです。外へ出られず、息を潜め、閉じこもっている人たちこそ、キリストの約束された聖霊は、力を与えにくるんです。なぜなら、あの日、弟子たちが置かれた状況も、同じようにめちゃくちゃで、落ち着かない日々だったからです。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」……家中に響く風の音って穏やかに聞こえるものじゃありません。たいていは、身の安全を脅かす、命の危険を感じさせる、そんな音として聞こえてきます。
ある人にとってこの音は、家の屋根を吹き飛ばす嵐のように聞こえるでしょう。別の人にとってこの音は、家全体を揺り動かす地震ように聞こえるでしょう。また別の人にとってこの音は、頭上から自分たちを襲ってくる空爆のように聞こえるでしょう。家中に響く風の音は、災害や戦争を想起させます。弟子たちも恐ろしかったでしょう。
その次に、聖書はこう続けています。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」……炎が分かれていく、あっという間に燃え広がっていくような描写も、私たちにとって、身の安全を脅かす、命の危険を感じさせる、そんな光景と結びつきます。
ある人にとってその光景は、自分が襲われた噴火の様子を思い出させるでしょう。別の人にとってその光景は、地震が治まったあとの火災を思い出させるでしょう。また別の人にとってその光景は、爆音と共に燃え上がる戦場の様子を思い出させるでしょう。一人一人の上で燃え上がる炎も、災害や戦争を想起させます。
さらに、聖書はこう続けています。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」……集まった人々が、異なる言語で話し出す様子は、どちらかと言うと「混乱したイメージ」です。旧約聖書に出てくる「バベルの塔」でも、人々が違う言葉で混乱させられる話が出てきました。
ある人にとってその様子は、避難場所で同郷の人たちを探している外国の人と結びつくでしょう。別の人にとってその様子は、難民が集まっているキャンプと結びつくでしょう。また別の人にとってその様子は、海外から来たボランティアの人々と結びつくでしょう。それだけではありません。
実は、ペンテコステに弟子たちの言葉を聞いていた群衆の中には、既に亡くなったはずの、滅ぼされたはずの人たちも書かれていました。10節に「パルティア、メディア、エラムからの者がいた」と書かれていますが、弟子たちが生きている時代には、もうメディアの人々は滅ぼされ、いなくなっていました。
本来、ここにいるはずのない人々が、とっくに死んで、救われなかったはずの人々が、あの日、あの時、弟子たちの語り出した福音を、イエス様の教えと業を聞いていました。時代も、場所も、死の隔たりも越えながら、聖霊は私たちを一つに集め、神の救いを告げるんです。私たちが語れなかったはずの人にも、言葉を届かせてしまうんです。
風と炎と爆音が響いた日、今まで恐怖の象徴でしかなかったものが、希望の象徴に変わりました。イエス様から流れた血、殉教者から流れた血の色は、新しい命をもたらす聖霊の色にもなりました。家中に響いた風の音は、破壊の音ではなく、創造の音になりました。燃え上がる炎は、奪う力ではなく、与える力になりました。
さあ、ここに集まった人たちも、離れたところにいる人も、後から言葉を聞く人も、聖霊によって一つにされ、同じ食卓に招かれました。共に恵みを受け、祝福を分かち合い、新たに遣わされていきます。共に送り出されていきます。信仰と、希望と、愛が、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。