あなたも離れて行きたいか?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨシュア記24:14〜24、ヨハネによる福音書6:60〜71
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)……こんな台詞を聞いたら、誰だってびっくりするでしょう。自分の肉を食べさせ、血を飲ませようとするなんて、どっかのカルトみたいです。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」……そう言って、イエス様から、多くの弟子が離れていったように、現代の私たちも、人の血肉を食べさせようとする人に、ついて行こうとは思いません。至極当然の反応です。一方で、イエス様が文字通り、自分の血肉を、誰かに食べさせようとしたかと言えば、そんなことはありません。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」という表現は「イエス様が、私たちを救うために、十字架にかかって肉を裂かれ、血を流され、命をささげられたと信じる者」という意味で、本当に、イエス様が自分の血を飲ませ、自分の肉を、誰かに食べさせようとしたことはありません。
それは、イエス様と一緒に居たら分かるはずのことでした。イエス様がこのように話したのは、群衆が、荒れ野でマンナ(天からのパン)を与えられた祖先のように、自分たちも、イエス様に天からのパンを与えてほしいと願ったからでした。ようするに、「神の子なら、目の前でパンを出してほしい」と頼んだわけです。
けれども、群衆がこのように頼む前日に、イエス様はお腹を空かせた5千人以上の人々へ、5つのパンと2匹の魚を分け与え、残ったパンの屑で12の籠がいっぱいになる奇跡を起こしていました。足りないはずのパンを増やして、空腹だった人々に分けられた……それはまさに、天からのパンを与えられる、神の助けがもたらされる出来事でした。
ところが、その出来事を経験した人々は、次の日に「あなたを信じることができるように、神の奇跡でパンを与えてください」というふうに要求します。たぶん、ここで奇跡を起こしたら、イエス様から、大勢の人が離れていくことはなかったでしょう。それどころか、弟子になる人が一気に増えたことでしょう。
けれども、イエス様は、彼らがつまずくことを語ります。「わたしが命のパンである」「このパンを食べる者は永遠に生きる」……いやいや、あなたをパンのように食べるなんて無理ですよ。私たちに、あなたの肉を食べさせるんですか? そんなことしたら、あなたは死んでしまうし、私たちは人喰いになってしまいます!
でも、実際に、イエス様から、パンをもらった人たちは、この方が、人の血肉を食べさせようとする、酷い人ではないことが、分かってもいいはずでした。むしろ、人から何かを奪ったり、盗んだりさせないで、足りないものを満たそうとする、みんなを大事にされる方だと、気づいてもいいはずでした。
彼らが受け取ったパンは、何が入っているか分からない怪しいものではなく、その場にいる少年が差し出した、大麦のパンを分けたものでした。彼らはそれが、大勢の人に行き渡る、他の人にも分けられる、感謝に満ちた食事になるのを見ていました。にもかかわらず、次の日、イエス様が文字通りの要求に応じないと、すぐに離れていってしまいます。
「私たちの言うとおり、パンを出してくれないなら……自分をパンだとのたまうなら……これ以上、話を聞く気になれません」「シンプルに、耳触りの良いことを言ってくれないと、ついていくことはできません」……そんなふうに、イエス様から離れていってしまいます。
それは、彼らの祖先が、荒れ野でマンナ(天からのパン)を与えられた時代でも同じでした。人々は、自分たちのために、神様が、エジプトの軍勢を追い散らしても、火の柱や雲の柱によって導いても、岩から水を与えても、毎朝マナを与えても、うずらの肉を降らせても、繰り返し、神様の言うことを聞かなくなって、離れていきました。
何度、神様に助けられても、苦難に直面すると、神様に助けを求めるより、責める相手を探しました。多くの奇跡を起こされたにもかかわらず、自分たちの間に、神がおられるかどうか試してきました。思わず、モーセの後継に選ばれたヨシュアが「あなたたちは主に仕えることができないだろう」と言うほど、同じことを繰り返してきました。
そして、イエス様から「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた弟子たちも、この後イエス様を裏切って、見捨てて離れてしまいます。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えたペトロでさえ、イエス様を3度知らないと否定してしまいます。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と答えた、イスラエルの祖先とそう変わりません。こう言いながら、結局は神様を、イエス様を捨てて、離れてしまう姿を晒しています。皆さんも、今日のメッセージのタイトルを聞いて、いくらかドキッとしたでしょう。
「あなたも離れて行きたいか?」……いいえ、離れたくありません! 神様、あなたを信じています! だけど、正直、離れてしまったことがあります……離れかけたことがあります……あなたがいるか信じられなくなり、あなたの救いを疑ったことがあります……だから、自分のような者が、あなたから離れないと言い切れるのか、自信がありません。
キリストの受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節のこの期間、自分がいかに、神様から離れた生活をしてきたか、振り返る人もいるでしょう。イエス様の言葉につまずいて、見捨てて離れた弟子たちに、自分を重ねる人もいるでしょう。
このまま離れた状態で、いつか神様に見切りをつけられるかもしれない……そう思って怯えている人もいるでしょう。でも、安心してください。「あなたも離れて行きたいか?」と問われる方は、あなたを離れたままにしておきません。あなたが答えられないまま、あなたが俯くままにしておきません。
「わたしたちも主に仕えます」そう答えたにもかかわらず、繰り返し、神様に背いてしまった人たちにも、神様は再び、新しい約束を交わしてくださいました。「あなたこそ神の聖者です」そう答えたにもかかわらず、イエス様を見捨てて離れた弟子たちにも、キリストは再び出会い、「わたしに従いなさい」と呼びかけてくださいました。
「あなたも離れて行きたいか?」……そのように問われて「もう離れているのかもしれない」「この先離れてしまうかもしれない」「でも離れていきたいわけじゃない」と、苦しんでいる人たちに、改めて伝えます。神様は、あなたを離れたままにしておきません。「信じます」「従います」と答えた者に、「嘘つき」と見切りをつける方ではありません。
背いた者が従う者となったように、見捨てた者が導く者となったように、信じない者が信じる者となったように、たとえ、あなたが離れる者でも、神様は、あなたを近づく者へ変えられます。キリストの呼びかけに答えるとき、それは、あなたの自信によってではなく、あなたに変化と回復をもたらす、神への信頼によって答えます。
だから、キリストの与えるパンと杯を受けなさい。自分が「ふさわしくない者」と思うなら、あなたを「ふさわしい者」に変えられる、神様に信頼して飲みなさい。自分の信仰が薄いと思うなら、あなたの信仰を強めてくださる、キリストに信頼して食べなさい。あなたを食卓に招いた方が、あなたを自分の友と、弟子と、呼んでいます。アーメン。
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