それを明るみに出しなさい【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨハネによる福音書8:12〜20、エフェソの信徒への手紙5:6〜20
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
SNSをはじめ、テレビや新聞、週刊誌など、様々なメディアで色んな悪事が暴露されるようになりました。被害者による告発、内部からのリーク、あるいは、ジャーナリストの取材によって、今まで隠されていた問題が、白日の元にさらされます。中には、目を覆いたくなるような、悲惨な事件も多いです。
特に、性的虐待や、セクシャルハラスメントの問題は、被害を告発されてからも、多くの痛みが伴います。それは、私たちキリスト教会においても同じです。牧師や司祭による性暴力、組織的な隠蔽と否認、機能してない相談体制……ちょっと振り返るだけでも世間で話題になった事件や、教団・教区で議論になった問題が、思い出されてくるでしょう。
もちろん、牧師や司祭に限りません。信徒の間で起こったセクハラや、クリスチャンの家庭で起こったDVも、第三者機関と相談することや、被害の防止を優先するより、問題を矮小化され、覆い隠される傾向があります。本当は、何がセクハラに当たるのか、被害があったとき、どのように対応すればいいのか、分かち合う必要があるでしょう。
けれども、教会というのは聖なるところ、品行方正な人たちの集まりだから、卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談が出てくるなんてあり得ない……ましてや、教会関係者による性的虐待やセクハラなんて、口にするのもおこがましい……そんなふうに、悪事を疑うこと自体、避けようとする人もいます。
実際、勇気を出して、問題を告発した被害者の方が、教会を攻撃していると非難され、頭がおかしいと侮辱され、「原因はあなたの方にある」と黙らされてきた事例が、数多く報告されています。事実を確認するより先に、証言を検証するより前に、訴えられた牧師や司祭が庇われて、被害がなかったことにされてしまう……そんな事例もありました。
何なら、教会で、セクハラや虐待を防ぐための学習会を開くことさえ、「必要ない」「関係ない」と検討されないところもあります。実際、中部教区でも「まずは、ハラスメントの被害を防ぐ、学習会を行うために、委員会を設置できないか?」という提案が出ても、「相談窓口は作れない」「運用できない」という理由で、毎度、検討がストップしています。
積極的に、問題を覆い隠す意図はないかもしれません。本当に、個々の教会を信頼しているか、内々に解決できると思っているかもしれません。しかし、無意識に、自覚なく、ネガティブなものを、なるべく表にさらしたくない……という意識が、私たちの中に出てきます。厄介な対処や対策へ、踏み出したくない気持ちがあります。
そんな中、教会へ宛てられた手紙の中に、それも、聖書に収められている手紙の中に、気になる言葉が出てきました。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」……口にするのも恥ずかしいのに、それを明るみに出しなさいと命じられる。
いったい何のことかと思うでしょう。少し前の、エフェソの信徒への手紙5章の初めの方に、それに関する具体的な注意が出てきました。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはいけません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」
いわゆる「性的不道徳」「性的不品行」と呼ばれるような内容が出てきました。今でいうセクハラ発言のように聞こえます。そんなもの、教会にあるはずがない……という文脈ではなく、教会でも、そのような言動を許容しかねない空気があることを、厳しく追求した言葉です。
6節の「むなしい言葉に惑わされてはなりません」という注意は、こういった空気が、「何の問題もない」とするような主張に対し、惑わされてはならない、という指摘になっています。何が問題に当たるのか、何を注意しなければならないのか、基本的なことに言及した、教育の言葉とも言えるでしょう。
教会やミッションスクールに通っていれば、一度は耳にする聖句も出てきます。「光の子として歩みなさい」「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」……皆さんは、口にするのも恥ずかしい問題が、教会の中で見え隠れしたとき、何が主に、神様に、喜ばれると思うでしょうか?
教会の印象を落とさないように、問題が明るみに出ないように、覆い隠して過ごすことか? それとも、問題と正面から向き合うために、闇を照らして、明るみに出していくことか? もしかしたら、自分自身の無知や過ちが照らされてしまうかもしれません。闇の業に加担していた、恥ずかしい姿を自覚させられるかもしれません。
クリスチャンってそんな人だったんだ……教会ってこんなところだったんだ……そんなふうに、幻滅されるのを恐れて、闇を照らしていく勇気が、出てこないかもしれません。明るみに出すことで、清らかさが失われ、教会に「死」がもたらされ、二度と立ち上がれなくなるのでないか……そのような不安に襲われます。
けれども、手紙の著者は、不思議なことを語っています。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」……ひそかに行われている、口にするのも恥ずかしいことを明るみに出せば、当然、ネガティブな反応が待っているのに、それらがみな、光になる……明らかにされて、変わっていく。
エフェソの信徒への手紙は、宣教者パウロの書いた手紙に見られる、重要な教えの多くが要約されています。そのパウロが、もともとどんな人物であったのか、キリスト教会で知らない人はいないでしょう。イエス・キリストを神の子と信じず、ステファノの処刑にも賛成し、他の信者も殺そうとして、息巻いていた人物でした。
信者の家を破壊して、祭司長たちと手を組んで、反キリストを扇動していた、最先鋭の人でした。彼のしてきたことは、文字通り、繰り返し聖書の中でさらされています。しかし、そのほとんどは、彼自身が人々に告白してきた言葉です。使徒言行録でも、パウロの書いた手紙の中でも、彼の犯した闇の業は、何度も証言されています。
キリスト教徒の手を引いて、捕まえようとした自分が、その過ちで目を見えなくされ、手を引かれるようになったこと……自分自身が処刑するため、捕まえようとした信者に、手を置いて祈ってもらい、再び目が見えるようにされたこと……今まで反対してきたことを覆し、イエス・キリストの教えと業を人々へ伝えるようになったこと。
自分がどのような過ちを犯し、どのように変えられていったのか、パウロ自身が明るみに出し、それらを光に変えられていきます。恥ずかしかった過去の姿も、闇に陥っていた自分の姿も、キリストとの出会いを語る、新たな姿に変えられます。明るみに出した彼の姿は、パウロ自身を暗闇に留め、死に至らせることはありません。
むしろ、キリストの光に照らされて、死者の中から起こされたことを、パウロは何度も思い起こします。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」……それは、まさにパウロの経験したことでした。同じことは、他の弟子たちにも起きています。
イエス様が敵に捕えられたとき、見捨てて逃げ出してしまったこと……「最後まで従います」と約束したのに、誰一人、約束を守れなかったこと……十字架につけられて、三日目に復活すると言われていたのに、イエス様が直接訪れるまで、誰も信じられなかったこと……中でも、弟子たちの中心人物であったペトロの過去は、多くの人が記憶しています。
自分も敵に捕まりそうになったとき、イエス様を「知らない」と三度否定してしまったこと……しかも、呪いの言葉まで吐いたこと……目を覚まして、祈らなければならなかったとき、三度も眠りこけてしまったこと……実は、弟子としてふさわしくない、不信仰と見なされる、愚かな恥ずかしい姿を、何度も、何度も、さらしていました。
しかし、聖書はそのことを隠しません。ペトロも、自分が陥っていた暗闇を照らし、人々に語って聞かせます。こんな自分に、イエス様がどこまでも付き合ってくれたこと、こんな自分を、イエス様が支え続け、励まし続け、新しくし続けてくれたこと……明るみに出した彼の姿は、ペトロ自身を暗闇に留め、死に至らせることはありません。
再び、あの言葉が聞こえてきます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」……そう、私たちが、自分の闇を照らされるとき、光の中にさらされるとき、闇が光を覆う心配ではなく、明らかにされるものがみな、光となるよう導かれる、神様の業を信頼するのが、信仰です。
イエス様は言いました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」……それは、あなたに、私に、私たちに、言われていることです。キリストの光に、闇を照らされた者たちは、暴かれた闇によって死ぬのではなく、死者の中から立ち上がらされ、光となって、新しい生き方に変えられていきました。
教会も、そのことを信頼していいはずです。そのことを何度も思い出して、歩んできたのが教会のはずです。だから、私たちも、恐れず闇と向き合いましょう。何が主に喜ばれるかを吟味しましょう。眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる……アーメン。
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