
力と愛と思慮分別【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙二1:1~7
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」……この言葉は、私が牧師になるための按手を受けるとき、司式をしてくださった先生が、メッセージで取り上げてくれた聖句です。
これからいよいよ牧師になる、自分自身が、教会の主任として責任を持つ……そんなプレッシャーを前にして、まさに私が弱気になり、臆病になっているときに、励ましをくれた言葉でした。
しかし、今になって、その続きを読むと、思わずギョッとさせられます。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」……直前で励ましを受けたのに、囚人という言葉が出てくると、再び不安が増してきます。
さらに、「証しすること」という表現は、ギリシャ語で「殉教」に通ずる言葉です。どうも穏やかじゃありません。よくよく見てみると、この文書全体は、テモテという人物にパウロが言い残す「遺言」の形で記されています。
実際のところ、この手紙自体は、パウロ本人が書いたというより、パウロの死後、一世代か二世代を経て、弟子の一人が書いたものと言われていますが、いずれにしても、師匠が弟子に残したメッセージが、反映されていると考えられます。
確かに、パウロは囚人として度々投獄されており、晩年もローマに幽閉され、各地へ手紙を送ることで、伝道と牧会を続けていました。自分の死が近いうちにやって来ることを予想して、弟子たちに送ったメッセージ……その一部が、後の弟子によって綴られます。
そう、牧師になるための按手を受けるとき、私を励ますために語られたのは、パウロの遺言のメッセージでした。その遺言には、師匠が捕えられ、一人で派遣されなければならなくなった、年若い宣教者の名前が出てきました。まさに、手紙のタイトルにもある、テモテという人物です。
先週まで読んできた、テモテへの手紙一と比べ、テモテへの手紙二は、さらに個人的な内容を含んでいます。使徒言行録によると、テモテはギリシア人の父と、ユダヤ人の母との間で生まれており、それゆえ、生粋のユダヤ人からは、異教徒の血が混じっている……ということで、厳しい視線に晒されました。
彼の家では、まず、祖母ロイスと母エウニケに信仰が宿ったことが記されますが、ギリシア人の父については、名前も出てこないことから、家族全員が、同じ信仰を持てたわけではないだろうと推測されます。逆に言えば、宣教者として派遣されるのに、テモテは自分自身の家族に、自分の父に、信仰を共有することができなかった人物でした。
父親に対し、宣教者の力を発揮することができなかった……家族相手に、落ち着いて、冷静に、納得させられる言葉を紡げなかった……そんな様子が浮かんできます。そんな自分に、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」と言われても、「いや、自分は臆病風に吹かれてしまい、父親と、ちゃんと話すこともできないでいる」と言いたくなったかもしれません。
さらに、この手紙が書かれた頃、初代教会を取り巻く状況は、1世紀にわたって厳しい変化を続けていました。ローマ帝国によるキリスト教の迫害はいよいよ激しくなり、ついにはパウロのように教会の指導者が投獄され、処罰される危険も出てきました。既に、アジア州の人々は皆教会から離れ、信仰を捨て、身の安全を確保していたんです。テモテだって、心は揺れていたでしょう。
このまま伝道を続けていれば、自分も捕まってしまうかもしれない、一人孤独になるかもしれない、死んでしまうかもしれないと……同時に、テモテはもともと心配性で、不安になりやすい人でした。コリントの信徒への手紙でも、パウロは彼に配慮して、教会の人たちにこんなアドバイスを送っています。
「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください……だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときは、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。」
なるほど、テモテは一人で物事に対処するのが、たいへん苦手なようでした。誰かが側にいて、安心できる状況でなければ、なかなか務めを果たせない人間でした。ところが今、教会はローマ帝国による迫害で、どんどん人が減っています。キリストの十字架と復活を否定し、教会を分裂させる者たちも現れました。
テモテは非常に心細かったはずです。誰かの助けを心待ちにしていたはずです。そんな中、恩師から届いた言葉は「大丈夫、私があなたを助けに行こう」というメッセージではありません。自分に与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように……神が臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をくださったことを思い出すように、言われます。
むしろ、臆病になっているんだけど……一度燃え尽きてしまったんだけど……力も、愛も、思慮分別も、増しているように思えない……でも実は、違うのです。心配性で、不安になりやすいテモテに対し、パウロはちゃんと、必要な力が与えられることを確信し、これらの言葉を残します。
私たちは、不安な気持ち、臆病な気持ちのことを、自分の自信を失わせ、行動を阻害させる、ダメな気持ちと思い込んでしまいます。でも、本当は「不安がないなら、新しいことを始めるべきじゃない」と言われるほど、この「臆病さ」って大事なものなんです。なぜなら、不安は物事に、新しく対処していくための準備をしている状態だからです。
どうしよう……人事や運営なんて今までしたことなかったのに、学校の教頭に任命されてしまった! 先生たちのシフトを考えなきゃいけない! 市や県との交渉や手続きを覚えなきゃといけない! 何にも知らない、何にも分からないこの私が、ちゃんとやっていけるだろうか? ああ、別の人にお願いしたい!
一見、こんな不安は、ひたすら自信を失わせ、堂々と対処することをできなくさせるように感じますが、実はこれがないと、新しい職務を行えるようになりません。だって、不安がなければ、準備なんてしませんから……これがいるかな? あれがいるかな? と考えなければ、その役目に必要な思慮や配慮、分別も、生まれてくることはないからです。
士師記の中に、これに関する面白い話が出てきます。イスラエルがミディアン人の襲撃や略奪に苦しめられていたとき、民の指導者としてギデオンが立てられた話です。おそらく、私が知る聖書の登場人物で、最も臆病な性格をしている者の一人です。彼はイスラエルをミディアン人から救うため、神様から遣わされたとき、こう言って抵抗します。
「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」……何だか、神様の使命を断ろうとしたモーセの台詞みたいです。神様は、「わたしがあなたと共にいるから大丈夫」と言いますが、ギデオンは不安を募らせ、「では、そのしるしを見せてください」と頼みます。
ここまでは普通です。神様は、彼が望むしるしを与え、さっそくギデオンを遣わします。そしていよいよ、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結束し、川を渡って、イスラエルのもとへやってきたとき、ギデオンのもとに主の霊が降り、彼の全身を覆います。ところが、次の瞬間、ギデオンはまたこう言い出すのです。
「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、こうこうこういうしるしを見せてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます」……ちょっと前に、しるしを与えてもらったばかりなのに、彼はまたも臆病風に吹かれます。
しかも、今回は一度だけで満足せず、「もう一つ、もう一つだけしるしを見せてください!」と懇願するのです。何だか最初よりも臆病になっています。ここで注目したいのは、「主の霊が彼を覆っていた」にもかかわらず、臆病さが増してしまったという事実です。
神様がくださるのは、「おくびょうの霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」であるはずなのに、ギデオンはあいかわらず、というよりこれまで以上に、臆病な気持ちになっていました。話が違います。こんなんじゃ、ギデオンはいつまで経っても指導者としてふさわしくなれません。もしも、敵と戦い始めてから臆病風に吹かれたら、ビクビクしている間に首を切られてアウトです。
ところが、彼はこれだけ臆病なのに、ミディアン人と戦うときには、神様のいうことをしっかり聞いて、自分の仲間を3つに分け、夜になってから敵を包囲し、混乱に乗じて同士討ちを起こさせます。敵にぶつかっていく、最も緊張するタイミングで、非常に冷静かつ適切な判断を下したのです。
主の霊がギデオンを覆ったとき、彼が抱いた不安感は、単なる臆病さではありませんでした。むしろ、繰り返し神様の指示を求め、何を行うべきかを選び取る、思慮深さと判断、分別を生み出す力でした。パウロがテモテに与えられると言ったのも、この「思慮分別」をもたらす霊、行動に移す「力」と人々を導く「愛」をもたらす霊でした。
東京で、多くの先輩牧師に囲まれる中、按手礼式を受けたとき、私は心の中でこう思っていました。ああ、ついに自分は牧師として遣わされる。ここから送り出されていく。だけど正直、今まで以上に、自分は臆病になっている。
毎週、礼拝と祈祷会のメッセージを、ちゃんと用意できるだろうか? 総会や役員会の運営を適切に進めることができるだろうか? 宗教法人上の手続きを、不備なく一人で行えるだろうか? 上手く喋られないかもしれない、ギクシャクしてしまうかもしれない、失敗するかもしれない……いくらでも不安がやってくる。
愛と力と思慮分別の霊ではなく、臆病さが与えられている私は、本当はこの仕事に就くべきじゃなかったのかもしれない……しかし、私がただ単に「臆病さ」だと感じていた不安は、私が一つの教会で牧師として歩んでいくための、思慮と分別を用意する力でもありました。
不安があったから、私はここに来る前、色々な準備ができました。メッセージのストック、教会の運営方法・法人上の手続きの確認、必要な書籍の購入……逆に楽観的過ぎたら、これらを用意しないまま、配慮や思慮に欠けた牧会をしていたかもしれません。まあ、準備していても、不足や欠けはあるんですけどね……。
もしも今、あなたに新しい職務が与えられ、不安を覚えているとしても、前より臆病になっていたとしても、「私はこの務めにふさわしくない」なんて思う必要はありません。神様が、あなたの中に与えた不安は、決して「おくびょうの霊」ではなく、あなたが使命を果たすために必要な「愛と力と思慮分別の霊」なのです。
あなたの上に降りかかった困難、あなたを苦しめる障害の数々も、あなたをその役目から引きずり下ろすものではなく、あなたが使命を果たすための力へと変えられるものなんです。あなたを遣わした神様は、必ずあなたと共にいて、その働きを支えてくださいます。共に、これらの力を受け取りましょう。
ここから先は
¥ 100
柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。