行いによって幸せに?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 アモス書5:18〜24、ヤコブの手紙1:19〜27
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
礼拝の初めに読まれた招きの言葉、ルカによる福音書13章4節に、ドキッとした方は少なくないでしょう。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」……ある事件が起きたとき、犠牲者、被害者が生まれたとき、その原因について、私たちは考えます。
なぜ、このような悲惨な出来事が起きたのだろう? なぜ、罪もない人々が犠牲になってしまったのだろう? 神様は彼らが死なないように、傷つかないように、助けてくださらなかったのか? 助けてもらえなかった彼らは、事故に、事件に、巻き込まれた彼らは何か悪い要素があったんじゃないか?
そうであってほしい。その方がまだ納得できる。何も悪いことをしてない人が、正しく生きてきた人が、理不尽に傷つけられ、巻き込まれ、捨てられるような世界であってほしくない。何か、そうなっても仕方のない理由があった、要因があったから、報いを受けてそうなったのだと思いたい。それなら、正しい行いをする限り、不幸を避けられる。
一方で、私たちは知っています。行いが正しくても、悪いことをしていなくても、事故や事件に巻き込まれ、抑圧され、捨て置かれる人がいることを。良心的な人も、信仰深い人も、努力した人も、苦労した人も、その行いによって、幸せになるどころか、むしろ、理不尽に傷つけられ、弄ばれ、苦しむ現実があることを。
「津波に巻き込まれて死んだあの1万4千人は、日本に住んでいたどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」「原爆を落とされて死んだあの50万人は、世界に住んでいたどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」……こう言われたら、たいていの人は首を横に振るでしょう。
神の子であるイエス様も「決してそうではない」と言われます。あのとき死んだ人たちは、私たちと何も変わらない。私たちより罪深いわけでも、私たちより悪人だったわけでもない。けれども、ここでイエス様は、不安になる言葉を続けます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
悔い改めって何でしょう? どうすれば、悔い改めたことになり、滅びを免れることができるんでしょう? 聖書において、悔い改めは、「心を入れかえる」「神に立ち帰る」といった意味で使われます。言い換えれば、「悪い道から離れて、良い道へ帰ること」「神様から離れた人が、神の呼びかけに答え、帰ってくること」です。
つまり、「悔い改めなさい」と言われたとき、私たちは、神から離れた状態で、神の呼びかけに答えない状態であることが前提になります。それは、災難にあったガリラヤ人や、シロアムの塔が倒れて亡くなった人、津波に巻き込まれて死んだ人、原爆で殺された人たちだけを、特別に指しているのではありません。
私たちみんな、苦難に襲われた人たちと同じように、神から離れた状態で、神の呼びかけに、答えていない状態なんです。そんなことない、私はちゃんと神様を信じているし、偶像礼拝をした覚えもない。信仰を告白して洗礼を受け、礼拝にも通っている。そう言いたくなる人に、ヤコブの手紙は、神の呼びかけによって、容赦なく鏡を突きつけます。
「御言葉を行う人になりなさい」「自分を信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」……礼拝に来ない人を裁き、聖書を知らない人を見下し、自分よりも罪深い、神から離れた存在だと蔑む人……そのような信心は無意味です。
子連れの家族が並んで座れず、席を譲ってくれる人がいなかったなら、その教会で、何をささげられても、神様は喜ばないでしょう。泣き出した赤子を慌ててなだめる親たちをチラッと睨むだけで、憐れみをかけないのであれば、その礼拝で、どんな賛美をしても、神様は喜ばないでしょう。
「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」…隣人を蔑ろにする礼拝は、神様の求める礼拝ではないんです。教会に来るのは、教会に来ない人を蔑むためではありません。神の国にみんなが招かれていることを、仲間と一緒に伝えるためです。
献金をささげるのは、献金できない人を見下すためではありません。自分にもたらされた恵みをみんなと分けて、一緒に神様を賛美するためです。信仰を告白して洗礼を受けるのは、洗礼を受けない人を裁くためではありません。自分に新しい命を与えてくださったイエス様が、自分と出会う人にも、命を与えてくださることを証しするためです。
ヤコブの手紙は、貧しい人より富んでいる人をえこひいきしてはならないことや、富んでいる人は貧しい人を助けるようにお金を用いるよう勧めています。おそらく、真面目に礼拝へ来る人たち、献金も一生懸命ささげる人たちの間で、同様のことができない貧しい人を裁いたり、見下したり、蔑む傾向があったのだと思います。
何でもっと働かないのか? 何でまともな仕事につかないのか? なぜ施しに頼るのか? その日の食べ物にも事欠くのは、あなたの信仰が薄いからじゃないか? 神の怒りを買うような悪いことをしたんじゃないか? 私はちゃんとした服を着て、ちゃんとした時間に到着して、ちゃんと献金をささげているけど、あなたは何ができているのか?
しかし、彼らは忘れていました。人を裁くなと教えられ、みなしごや、やもめが困っているときに世話をするよう勧められ、人に憐れみをかけるよう、呼びかけられてきたことを。神様の声に蓋をして、自分が安心するために、自分を優位に置くために、教会へ通うようになっていた……御言葉を聞くだけで行わない者とは、自分のことでした。
手紙の著者は、改めて呼びかけます。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」……あなたの前に、隣に、後ろにいる人、あなたが遣わされた相手のことをよく見なさい。その人は裁く相手でも、追い出す相手でもない。あなたの隣人であることを、イエス様から聞いたはずだ。忘れてしまったのか?
「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」……そう、忘れちゃいけません。私たちがここにいるのは、人を分け隔てするためではなく、隣人に出会って、自分も隣人となるためです。評価されるため、評価するための行いではなく、幸せになるための行いを積み重ねるためです。
私たちは今、向きを変えて、帰り始めます。聖書によって、自分の姿を鏡に映され、ショックを受け、悲しみながら立ち去るとき、その先で、イエス様が招いているのが見えてきます。離れていることに気づいた瞬間、振り返った先に、自分のために待っている、両手を大きく広げている、イエス様がおられます。それが今日、ここへ礼拝に来た意味です。
御言葉を行う人になりなさい……これは、あなたを裁くために語られた言葉ではありません。あなたがその行いによって、幸せになるために語られた言葉です。もし、ショックを受けているなら、自分の姿に項垂れているなら、あなたの変化はもう始まっています。あなたに息を吹き込んだ方は、あなたが完成されるまで、付き合い続けてくださいます。
さあ、共に賛美をささげましょう。この歌は神様にとって騒がしい歌ではなく、あなたの生き方を新たにする歌として、ふさわしい供え物となるはずです。「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」「あなたがたの魂を救うことができます」
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