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打ち破る者【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ミカ書2:12〜13

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 ミカ書の預言が、普段の礼拝で読まれることは、あまりないかもしれません。「ミカ」というのは「誰が神のようであろうか」という意味のヘブライ語で、紀元前8世紀に活動していた預言者の名前です。彼の名前には、「誰も神のようになることはできない」「神のように力ある方は存在しない」という賛美と称賛が含まれています。

 非常に力強いメッセージの込められた名前ですが、ミカ自身は、モレシェトという小さな田舎の出身で、それ以外のことはほとんど知られていない無名の人物です。彼の故郷も紀元前701年に、アッシリアが北王国イスラエルへ攻め入った際、破壊され、占領されてしまったと考えられています。

 つまり、母国の終わりを肌で感じ取った人物が、ミカということになります。同じ時期に活躍した、預言者イザヤの方が有名かもしれませんが、ミカは、イザヤ以上に徹底してイスラエルの首都エルサレムの罪を告発し、都が完全に破壊されることを預言しました。聖書には、イスラエルが、北王国と南王国に分裂して、争っていた様子が描かれますが、ミカはそのどちらの王にも、鋭い批判と警告をしていたんです。

 列王記によると、ミカの時代には、東の大国アッシリアが南の方へ侵略を始め、北王国イスラエルは、滅亡の一歩手前にありました。不安定な情勢でクーデターが相次ぎ、国家は疲弊していました。にもかかわらず、北王国は、南王国の首都エルサレムを攻めようとして、戦争を起こし、敗北して、瀕死のところをアッシリアに攻撃されてしまいます。

 一方、南王国ユダは、北王国との戦いに勝つため、アッシリアに援助を求めた結果、アッシリアの宗教が導入されてしまいました。結局、アッシリアに占領された北王国でも、アッシリアの援助を受けて、ほとんど属国のようになった南王国でも、イスラエルの民は本当の神ではないものを拝み、神様から与えられた掟を守らなくなっていきました。

 特に、北王国の首都サマリアと南王国の首都エルサレムでは、正義と公正に反する不正な取り立てが横行し、貧しい人が虐げられ、上辺だけの平和が語られていました。不安定な情勢や不況に対する不安を和らげ、現実から目を逸らしてくれる偽預言者のメッセージに、多くの人が魅了されてしまったんです。

 私たちイスラエル人は、神の民として選ばれた国民だから、必ず勝利をもたらされる。この土地は、神様が私たちを祝福し、与えてくださると約束された場所だから、敵の手にわたって、戻ってこなくなる未来なんてあり得ない……まもなく、私たちの神である主は大国の脅威から解放してくださる!……「平和がくる」「平和がくる」……!

 そんなふうに、人々を高揚させる、偽りの預言が、あちこちで語られていたようです。一方で、神様が与えた掟を守らず、正義と公正を蔑ろにし、貧しい人を顧みず、本当の神ではない偶像を拝んでいる自分たちの姿に、疑問を持とうとする者は少数でした。神様の約束を都合よく捉え、神の民としてふさわしくない実態を不問にしている者が多数でした。

 現代でも、聖書に記された預言を根拠に、神様は、イスラエルの復興を約束されたのだから、パレスチナの住民が強制退去させられようと、多くの難民を生み出そうと、その過半数が子どもだろうと、イスラエルの建国を進めることは、神の御旨に適っている……と考えて、そこで起きている現実から、目を逸らしている空気が、海外でも、国内でも見られます。

 各地域との合意を破って、正当と言える範囲を超えた入植活動や占領政策が進められても、神様が復興を約束された国を、支持することが正しいんだと、熱狂的に、預言の成就を訴える人たちが見られます。でもそれって、預言者ミカが批判した、上辺だけの平和の呼び声に酔いしれる人たちと、同じことを繰り返していないでしょうか?

 おそらく、最初にミカの預言を聞いた人は、サマリアもエルサレムも陥落すると聞いて怒りが湧いてきたでしょう。神様が自分たちに与えた土地が、他国によって占領されるという預言は、預言者にあるまじきメッセージだと思ったでしょう。神の民として選ばれた自分たちの国が、不義や不正にまみれていると批判され、冒涜されたと感じたでしょう。

 しかし、それらは現実に、彼らの姿を映し出していました。人々は「神様にこの土地を与えられた」という出来事だけに目を留めて、互いに愛し合うよう求めた、神様の教えに目を留めることはありませんでした。同じ土地を与えられたはずの、分裂した国同士で、争い合い、外国を頼って神様を頼らず、神ではないものを礼拝していました。

 実は、ミカだけでなく、その前の預言者、アモスやホセアも同様に、イスラエルの罪を告発していました。サマリアの指導者と住民は、外国の神々を拝み、貧しい人を不正に取り扱っているため、神の裁きを受けることになる……エルサレムの指導者も、同じ悪行に陥っており、サマリアのように裁きを受けて、苦しむことになる……と。

 この警告は、紀元前722年に、アッシリア軍がイスラエルに侵攻し、サマリアを制圧したとき、現実のものとなりました。また、紀元前587年には、バビロニアがエルサレムを攻略し、指導的な地位にあった多くの人が、捕虜として連れていかれました。外国で捕囚の民となったイスラエル人は、この時期に自分たちの姿を省みて、旧約聖書の多くの文書を後世の人々へ残しました。

 神様の約束を都合よく受け取って、自分たちを省みないことは、本当に神様を信じているとは言えず、現実から目を逸らしているだけなんだ……約束された神の救いは、私たちの歪んだ状態が、歪んだまま放置され、水に流されることではないんだと、繰り返し、「神の裁き」が伝えられます。

 「神の裁き」というと、罰や、滅びや、地獄のような、恐ろしいイメージが湧いてきます。しかし、本来は、私たちを歪んだ状態のまま放置せず、正しい状態へ回復して、救いにあずからせるための、神の支配の現れです。神様は、契約書に記したことを、機械的に遂行される方ではなく、約束の成就が、誠実に果たされるように、私たちへ変化をもたらすお方です。

 だからこそ、ミカをはじめとする預言者は、裁きによって、人々を誤った状態から正しい状態へ回復する、神の支配を語ります。神の教えが守られるようになって、剣や槍が、鋤と鎌に作り直される日が来ると、新たな希望を語ります。不義や不正が放置される国ではなく、正義と公正が実現される国として、新たに立たされる未来が来るのを語ります。

 アッシリアに侵略され、バビロニアに滅ぼされたイスラエルは、長いこと、外国で捕虜として囚われている間、もう一度、神様に立ち帰り、故郷へ連れ戻される日を待ち望んでいました。預言者の声に、耳を傾けなかったことを悔い改め、自分たちに何が欠けていたかを振り返り、赤裸々に、聖書という書物へ、自分たちの姿を書き残していきました。

 やがて、神の裁きに続く、復興の預言が成就するときがやってきます。「打ち破る者が、彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」……それは、一見すると、イスラエル人が軍事的な力で外国の支配を打ち破り、故郷の町エルサレムへ帰還することを、表しているように感じます。

 しかし、その預言は「ペルシア王キュロスによる帰還の許可」という穏やかな形で実現され、「過去の敗北にリベンジする」「戦闘的に勝利する」という国民の期待を打ち破るように、平和的な回復がもたらされました。現代のパレスチナ問題においても、本当に打ち破るべき壁は、軍事支配下で建てられた、町や村を分断する壁であり、何十万人もの犠牲者を生み出し続けるあり方ではないでしょうか?

 収穫感謝礼拝の日曜日、私たちの前には、神様が与えてくださった秋の実りが飾られています。一方で、軍隊によって包囲され、人や物の出入りが制限され、十分な食べ物を、受け取ることのできない子どもたちや難民が、今も、停戦や和解を拒まれて、放置されています。その現状には、私たち、キリスト教徒の聖書の預言の受け取り方、神の約束の受け取り方も関わっているんです。

 だからこそ、私たちの王として来られた救い主が、軍馬に乗った「軍事的な王」ではなく、小ロバに乗った「平和の王」として、エルサレムに入城したことを、思い出したいと思います。この方が、何を打ち破って、私たちを罪から解放されたのか、振り返りたいと思います。

 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』『この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』(マタイによる福音書25:40、45より)……さあ、あなたも振り返りなさい。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。