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復活はもう起こった?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙二2:14~26

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 テモテへの手紙には、名指しで批判されている人たちが、複数人でてきます。今回は、ヒメナイとフィレトが出てきました。フィレトは、聖書の中でここ以外名前が出てこないので、どんな人物か、詳細を知ることはできません。一方、ヒメナイは、テモテへの手紙一1章20節にも出てきました。

 「ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒瀆してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました」……手紙の著者から厳しい言葉が語られています。どちらの手紙も、パウロの後世の弟子たちが、パウロの名前で書き残したと言われますが、名指しで出てきた人物は、弟子たちの間でも、よく知られた存在だったんでしょう。

 単なる個人の、道徳的なつまずきであれば、殊更名前を挙げられる必要はありません。おそらく、これらの人々、もしくはその考え方が、当時の教会に依然として、影響を及ぼしていたんでしょう。一つ目の手紙でも、二つ目の手紙でも、「俗悪な無駄話を避けなさい」という警告が繰り返されるので、パウロとは異なる教えが流布されていたんだと思います。

 たとえば、テモテへの手紙一では、ヒメナイの名前が出てくる少し前に、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」という言葉が出てきます。もしかしたら、これをそのまま受け入れず、否定してしまう言説が、ヒメナイやアレクサンドロによって語られていたのかもしれません。

 たとえば、「キリスト・イエスは、罪人を救うために来たのではなく、正しい知識に目覚めた者を救いに来た」「霊的な知恵、霊的な知識に目覚めていない者は救われない」……というような教えでしょうか? 一方、テモテへの手紙二では、ヒメナイの名前が出てくる前に、キリストが死者の中から復活されたことが語られていました。

 「わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」……このような復活についての教えも、そのまま受け入れることなく、否定してしまう言説が、ヒメナイやフィレトによって、語られていたのかもしれません。

 たとえば、「キリストが十字架につけられて死んだ出来事は、本当の死ではなく、肉体を捨てただけである」「3日目に甦ったのも、肉体を伴った復活ではなく、霊的な存在になったという意味である」というような教えでしょうか? 「キリスト教徒の復活も、死んだら霊的な存在になるという意味で、亡くなった信者は既に復活している!」と語っていたのかもしれません。

 このように、初期のキリスト教会では、霊肉二元論や霊的な知識を追求するグノーシス主義の傾向が、度々見え隠れしていました。神の子なのに死んでしまう……死んでしまったのに生き返る……救い主なのに苦しんで、正しい方なのに処刑される……頭で納得し切れない、受け入れ切れない現実を前に、自分にとって納得できる、辻褄の合う話を作り、それらを「隠された真理」「霊的な知恵」として、教えていた人がいたのかもしれません。

 現代でも、家庭や仕事を蔑ろにし、霊的なステージを高めることに熱中させ、お金を取って、人間関係を壊してしまうグループが、あちこちで被害を出しています。残念ながらキリスト教会の一部でも、日々の生活が破綻することも厭わない態度で伝道させ、熱狂的に様々な集会へ参加させ、陰謀論と親和性の高い言説を広めているところがあります。

 「他の教会は9割異端です」「隠された真理を教えられるのは私たちだけです」「ここで学べば、あなたも霊性が高められ、預言や啓示を受けられるようになります」……そんなふうに、自分たちの地位を高く見せ、現代の使徒や預言者を装って、誘惑、罠、金銭の欲に陥って、真理の道を踏み外す者が、今でも後を絶ちません。

 しかし、手紙の著者は、「神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません」と力強く語ります。「今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなる」と励まし、喚起し、力付けます。

 最初の手紙で、「神を冒瀆してはならないことを学ばせるために」「サタンに引き渡しました」と言われたヒメナイら、「道を踏み外した」者たちも、「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです」「悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう」と告げられます。

 教会は、万人がすぐさま納得できる、受け入れられる話を提供できる場所ではありません。しかし、信じた者、理解したと感じた者が、優越感と選民思想に浸る場所でもありません。「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません」と勧められているように、私たちは、互いに出てきた問いと向き合い、一緒に、目を開いていく必要があります。

 複雑に絡み合った聖書の言葉を、すぐさま納得させてくれるシンプルな教えに飛びつくことも、あらゆる問題を終わらせる便利な方法に飛びつくことも、世界情勢や未来を教える魅惑的な解釈に飛びつくことも、私たちが、距離を置くべき事柄です。安易に答えへ飛びつかない忍耐と、誠実な信仰生活が養われるよう、祈りを合わせていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。