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天の住み家【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ダニエル書12:1〜4、コリントの信徒への手紙二5:1〜10

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 この世の生活に、喜びを見出せないとき、自分の人生に、意味を見つけられないとき、地上での生活に嫌気がさして、早く天国に迎えてほしいと、言いたくなるかもしれません。こんな苦しみが続くなら、希望が持てない世界なら、さっさとここを脱出したい、重荷を脱ぎ捨ててしまいたい……でも、苦難に負けてしまったら、天の国に入ることも、赦されないように感じられる。

 かつて、バビロニアに、母国を滅ぼされたユダヤ人は、捕虜として外国へ連れて行かれました。その後、バビロニアはペルシアによって占領され、捕囚の民となっていたユダヤ人は、50年ぶりに祖国への帰還を許されました。しかし、国へ帰っても、家や仕事が残っている、保障のなかった人々は、多くがそのまま外国に残り、そこで生活を続けました。

 ところが、それから数百年後、ユダヤ人に対して棄教を迫る、過酷な政策が行われ、彼らは捕囚期以上に、苦しむことになりました。聖書は焼かれ、神殿での礼拝は禁止され、律法で食べてはならない食物を食べさせられ、掟を守ろうとした多くのユダヤ人が殺されました。まさに、脱出したい現実です。

 最初に読んだダニエル書は、そんな苦しみを前にして、神様の救いと約束を信じ、信仰を守った人々の姿が描かれています。それから何世紀も経って、イエス様を神の子と信じ礼拝するようになった人々も、ローマ帝国から迫害を受け、大きな苦難に立たされました。おそらく、初代教会の人々も、ダニエル書に出てきた苦難を思い起こしたことでしょう。

 どちらの人々も、迫害と苦難に耐える中、ショッキングな言葉を聞かされています。「ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」……預言者ダニエルの語った言葉は、苦しみを耐えて、天国に迎えられる者と、迫害に屈し、地獄に落ちていく者が、対比されているように感じます。

 また、宣教者パウロが、コリントの信徒へ残した言葉も、迫害に耐え、天の住み家を与えられる者と、苦しみに負け、天に住むことが許されない者を、対比しているように見えるでしょう。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」

 さて、私はどっちでしょう? 体を住み家としている今、この世で生活している今、苦難や困難を前にしても、ちゃんと神様に従い続け、永遠の命を受けられる、ふさわしい者と言えるでしょうか? それとも、苦難や困難に耐えられず、すぐ神様に背いてしまう、恥と憎悪を向けられる者に、もう陥っているでしょうか?

 「体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」……こう言われてしまうと、悪い報いを受けないように、良い報いを得られるように、必死に努力して、善行を積んで、天国に入ることを目指さなければならないように、感じてしまうかもしれません。

 しかし、この言葉は、単なる脅し文句として受け取るものではありません。コリントの信徒への手紙には、「この世で迫害を受けること」が「地上の住み家である体を壊されること」に、「神の国へ迎えられること」が「天の住み家である永遠の命を与えられること」にたとえられ、この世と神の国が、建物で表現されています。

 にもかかわらず、これらの家に「入る」「出る」という表現ではなく、これらの家を「着たり」「脱いだり」する表現が続きます。たとえばこうです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません……」

 地上の幕屋が、仮の住まいが、私たちの体を指している以上、それを脱ぐ、裸になるということは、肉体の死を意味します。しかし、裸のまま、肉体が死んだまま、放置されることはありません。天から与えられる住みかを、上から着せてくださる方がおられるからです。

 そんなこと言っても、天の住み家を与えられるのは、体を住み家としていたときに、苦難に負けなかった者、神様に従うことができた者で、耐えられずに逃げ出した者、教えを捨ててしまった者は、やっぱり地獄に落とされて、滅ぼされてしまうんじゃないか?……そういう不安があるでしょう。

 しかし、ここに出てくる「地上の住みか」「地上の幕屋」を脱ぎ捨てても、「裸のままではおりません」という表現は、ある人物の行動を思い出させてくるんです。それは、マルコによる福音書14章51節と52節に出てくる、一人の若者の話です。ちょうど、イエス様が敵に捕まって、最高法院へ連れて行かれる場面でした。

 「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」……これ以外、名前も活躍も出て来ません。たった2節の話です。他の弟子たちが、イエス様を見捨てて逃げる中、この若者は、ついて行こうとして、捕まりかけ、結局自分も逃げてしまった……となっています。

 おそらく、この人も、イエス様を信じて仲間になった、弟子たちの一人だったんでしょう。最後まで従おうとして、ついて行こうとしたんでしょう。けれども、自分も捕まりかけたとき、恐怖に勝てず、迫害に屈し、裸になって、逃げてしまいました。その姿は情けなく、敵からも、仲間からも、恥と憎悪の的になったでしょう。

 マルコによる福音書は、このあと若者がどうなったのか、続きを教えてくれません。これだけでは、若者の恥ずかしい姿が、さらされただけに見えるでしょう。苦難に耐えようとしたけれど、結局、耐えれなかった人……裸になって退場した人……そんな印象で、終わってしまうことでしょう。

 けれども、コリントの信徒への手紙二5章を読むとき、この印象は変わります。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」……苦難に耐えられず、亜麻布を脱ぎ捨て、裸をさらしてしまっても、その上から、天の住み家を着させてくださる方がいる。

 そう、亜麻布を脱ぎ捨て、裸になって逃げ出した若者は、恥と憎悪の的となって、放置されることはありませんでした。彼の姿は、恥ずかしいイメージから、希望をもたらすイメージに変えられます。イエス様が、裸にされて、十字架にかけられてしまった後、復活し、亜麻布を脱ぎ捨て、墓から出てくるときの姿が、彼と重なるようになります。

 若者は、自分と同じく裸になり、亜麻布を脱いで出て来た方と、再び出会ったことでしょう。再びついていったでしょう。この方は自分と同じところに立って、恥をに変えられて、付き合い続けてくださるからです。

 イエス様が十字架にかかって死んだのは、亜麻布を脱いで墓から出たのは、死を超えて私たちと出会い続け、新しい命、新しい生き方をもたらし続けるためでした。死ぬはずのものが命に飲み込まれるように、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、裸になった私たちに、新しく着るものを与えます。

 だから、あなたも顔を上げて、この良い知らせを受け取ってください。今の住み家が、地上のあなたが、ボロボロでも、上から天の住み家を着させてくださる、神の恵みを知ってください。私たちは死ぬはずのものでしたが、命に飲み込まれています。苦しみにあっても、愚かで弱くても、イエス様が、付き合い続けてくださることを知っています。

 天の国、神の国に迎えられるまで、あなたと出会い続ける主、あなたを新たにしてくださる主に、ひたすら、喜ばれる者となりましょう。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。