もっと気になるキリスト教(2)【キリスト教ABC講座】
聖書の内容やキリスト教に関する知識をQ&A方式でザックリ説明している講座です。購入しなくても全文読めます。
旧約聖書に関する質問
Q. アブラハムは、神に命じられたことなら、すぐに従う忠実な人だったんですか?
A. アブラハムは「信仰の父」と呼ばれるイスラエル人の祖先です。神に命じられてすぐ、生まれ故郷を離れて知らない土地へ移り住んだり、息子をささげるよう命じられて、そのとおりに従おうとした人間です。一方で、「神が自分たちを守ってくださる」と信じられずに、妻を「妹」と偽って外国の王に差し出してしまったり、「神が息子を与えてくださる」という約束を信じられず、笑ってしまったこともありました。アブラハムは、神に言われたことなら何でもすぐに信じられたわけでも、神が一緒にいるならどんなことでも恐れなかったわけでもありません。信じられるときもあれば、信じられないときもあり、従えるときもあれば、従えないときもあった、揺れ動く信仰者の一人でした。
Q. 神に滅ぼされたソドムの町は、どんな悪いことをしたんですか?
A. 創世記18章の後半には、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と出てきますが、具体的に、町の人々がどんな悪いことをしたのかは書かれていません。実は、ノアの洪水の話で、「地上に人の悪が増し」と書かれているところも、その悪の内容については書かれていません。ソドムとゴモラの町は、結局、神によって天から硫黄の火を降らされ、アブラハムの甥であったロトとその娘たち以外、全滅してしまいます。創世記6章以下で、ノアとその家族以外、みんな洪水で滅ぼされてしまったシーンと似ていますが、どちらも原因となった「人の犯した悪」については具体的に書き残されません。逆に言えば、「悪いことをしたから神が怒った」と伝えながらも「自分たちがどんな悪いことをしてしまったのか」には、深い関心を払わない、人間の姿が露わにされた箇所かもしれません。
Q. アブラハムの家族は、仲の良い模範的な家族だったんですか?
A. アブラハムは「信仰の父」と呼ばれますが、模範的な家庭を築けたわけではありません。神が自分と妻との間に息子を与えると約束したのに、妻から「主(神)はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください」と言われると、奴隷のハガルを側女に迎えてしまいます。ハガルはまもなく妊娠しますが、子供のできないサラを軽んじたため、怒ったサラから虐待を受けてしまいます。けれども、アブラハムは止めようとせず、サラの好きなようにするがいいと放置します。後に、ハガルからイシュマエルが、サラからイサクが生まれますが、サラがハガルとイシュマエルを追い出そうとしたときも、アブラハムは彼らを仲裁できません。神から助け舟がなければ、何もできない父親でした。アブラハムの家族は、仲の良い模範的な家族だったから、神に助けられて豊かになったわけではなく、仲良くなれない、どうしようもない家族だったにもかかわらず、神が一人一人に付き合い続けた家族の一つだったのです。
Q. 神はなぜ、アブラハムに息子イサクをささげるように命じたんですか?
A. アブラハムは長年、妻との間に子どもができませんでしたが、創世記21章で、ようやく息子のイサクが生まれます。それは、神がアブラハムに与えると約束していた子どもでしたが、22章で神はいきなり「あなたの息子、あなたの愛するイサクを…(略)…焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じます。アブラハムはその後、言われたとおり息子を縛って、刃物で刺し殺そうとしますが、その寸前で、天の使いに止められます。一般的には、神がアブラハムの信仰や忠誠を試したシーンと捉えられますが、親子の信頼関係を破壊しかねない行為です。アブラハムは以前、甥のロトが住んでいたソドムの町を神が滅ぼそうとしたとき、「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人のために、町をお赦しにはならないのですか」「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません」と言って、町が滅ぼされないよう、とりなしていました。神は、アブラハムの願いを聞いて、正しい者が十人いたら町を滅ぼさないと約束し、結局、町を滅ぼすことになった際も、天の使いを送って甥の家族を救出していました。しかし今回、アブラハムが息子のために、神へとりなす様子はありません。なぜ、息子をささげなければならないのか、自分が何か悪いことをしたのか、理由も聞きません。もしかしたら、神がアブラハムに望んでいたのは、言われるがまま息子をささげることではなく、息子のために命をかけて、自分にとりなす行為だったのかもしれません。
Q. イサクの長男エサウは「長子の権利を軽んじた」と言われているんですか?
A. イサクには、双子の兄弟エサウとヤコブが生まれ、兄のエサウは狩人に、弟のヤコブはテントの周りで家畜などを飼って働く人になります。ある日、ヤコブが赤いレンズ豆の煮物を作っていると、疲れ切って野原から帰ってきたエサウが、その煮物を食べさせてほしいと頼んできました。何日も獲物が獲れずにさまよっていたのか、死にそうなほど飢えています。ところが、ヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言って、エサウが長子の権利を譲ると誓うまで、食べ物を渡しませんでした。死にそうなエサウは「長子の権利などどうでもよい」と言って、ヤコブの言うとおりにしてしまいます。ちなみに、申命記21章では、父親の財産を相続するとき、長子は弟たちの2倍を受け継ぐことになっていました。「長子の権利」がそのことを指すなら、ヤコブは兄が受け取るはずの財産を一回の食事で譲らせたことになります。また、長子の権利が「父親から神の祝福を受け継ぐこと」を指すのなら、神にも父親にも御伺いを立てず、勝手に祝福を売買したことになります。聖書には、「こうしてエサウは長子の権利を軽んじた」と書かれていますが、より主体的に長子の権利を軽んじたのは、ヤコブだったとも言えるでしょう。神は、そんなヤコブのことも見捨てずに、この後も付き合い続けます。
Q. 母リベカが啓示を受けたように、兄エサウは弟ヤコブの奴隷になったんですか?
A. イサクの妻リベカは、エサウとヤコブを身ごもったとき、胎内で子供たちが押し合うので、自分はどうなってしまうのか心配になり、神の言葉を聞くために出かけていきます。すると、神は彼女に「お腹の中にいる2人の子は、2つの国民の祖先になること」「一方の民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになること」を告げました。つまり、兄エサウが弟ヤコブに仕える奴隷となり、ヤコブの民がエサウの民より強くなると聞いたわけです。けれども、預言通りになったかというと、実際には違います。後に2人は、エサウが受けるはずだった父親からの祝福をヤコブが騙し取ったため、激しく対立し、ヤコブは叔父の家へ逃げ出します。けれども、何年も経ったあと、神から故郷へ帰るように促され、兄の報復を恐れるヤコブは、エサウを「ご主人様」と言って、たくさんの貢ぎ物を送り、自分の方が奴隷になるような振る舞いをします。結局、再会したエサウは、もうヤコブを憎んでおらず、「自分のところには何でも十分あるから、お前のものはお前が持っていなさい」と答えます。その後も、両者が争ったり、一方の民が、一方の民を奴隷にするような展開もなく、エサウとヤコブの兄弟は、双方平和に過ごしました。
Q. イスラエルの12部族の祖先は、ヤコブの息子たちなんですか?
A. ヤコブは故郷へ帰る前、夜中に突然現れた神と格闘し、腿の関節を外されますが、「祝福してくださるまでは離しません」と言ってしつこく粘ったので、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言われます。こうして、ヤコブの一族は「イスラエル」と呼ばれるようになり、彼の息子たちが12の部族の祖先となり、大きな国民になっていきました。創世記35章23節以下に記される、ヤコブの息子たちの名前は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルの12人です。ただし、イスラエルの12部族には、他にもエフライムとマナセの名前が出てきます。これは、ヤコブの息子、ヨセフの2人の息子の名前で、エフライム族とマナセ族をまとめてヨセフ族として数えることもあります。
Q. ヤコブの末っ子ヨセフは、なぜ兄弟に憎まれ、人買いに売られたんですか?
A. ヤコブは年老いてから生まれたヨセフを、先に生まれたどの兄弟よりも可愛がり、特別に晴れ着を与えたり、明らかな贔屓をしていました。それに加え、ヨセフ自身も、兄たちのことを告げ口したり、自分が両親や兄弟の支配者になる夢を見て、得意げにそれを語ったりしていました。当然、ヨセフは他の兄弟から憎まれるようになります。そんな中、父親から、兄たちがちゃんと働いているか見てくるように言われたヨセフは、鬱憤の溜まった兄たちに捕えられ、穴に投げ込まれてしまいます。当初、兄たちは「ヨセフを殺して野獣に食われたことにしよう」と話していましたが、すぐ冷静になり、可哀想だから、殺すのではなく、近くにいるイシュマエル人へ売ってしまおうと思い直しました。ところが、彼らが話し合っている間に、ミディアン人の商人が穴の前を通りかかり、ヨセフを見つけて引き上げると、勝手にイシュマエル人へ売り渡してしまいます。こうして、ヨセフは奴隷としてエジプトに連れて行かれ、ファラオの宮廷の役人に買い取られていきました。創世記ではこのように、両親の偏愛から大きな事件につながる様子が度々描かれています。
Q. エジプトの役人に買い取られたヨセフは、その後どうなったんですか?
A. 兄たちに穴へ投げ込まれ、通りかかった商人に攫われて、エジプトの役人に売られたヨセフは、悲惨な奴隷生活が待っているかに思われました。ところが、神がヨセフのすることを全て上手くいくように導いたため、彼は、主人から家や財産の管理を任されるほど信頼されるようになります。ところが、ヨセフは主人の妻から一緒に寝るよう求められ、拒否し続けた結果、「ヨセフにいたずらされた」「襲われかけた」と虚偽の罪で訴えられ、牢に囚われてしまいます。しかし、監獄でも、上手くいくよう神に導かれたため、ヨセフはすぐに監守長から信頼され、周りにも評価されていきます。そして、かつて自分を満足させるために、兄たちを怒らせた夢の話を、今度は人のために語るようになります。やがて、その能力を認められ、ついに釈放されて、エジプトの王ファラオの右腕として取り立てられていきました。
Q. ヨセフは大人になってから、兄たちへ仕返しするんですか?
A. 兄たちに捨てられ、奴隷として売られたヨセフは、神の助けを受けながら、エジプトの王ファラオの側近にまで上り詰め、ついに、兄弟と再会する日がやってきます。それは、ヨセフの指示で、7年間の飢饉に備えて、穀物を蓄えていたエジプトへ、兄たちが食べ物を買いに来たときのことでした。ヨセフは、再会しても自分に気づかない兄たちへ「この国の手薄なところを探りに来た回し者だ」と言いがかりをつけ、自分の後に生まれた末っ子を連れてくるよう命じます。兄たちは、かつて自分たちがヨセフにしたことで罰を受けているのだと後悔し、今度こそ、末っ子を失わないよう命をかけて守ろうとします。その様子を一部始終見ていたヨセフは、ついに自分の正体を明かし、彼らと和解して、別れていた家族がもう一度、一緒に暮らせるよう手配します。こうして、ヨセフの物語は、兄弟に対する仕返しではなく、和解と回復で幕を閉じることになりました。
新約聖書に関する質問
Q. 洗礼者ヨハネは、何のために人々へ洗礼を授けていたんですか?
A. 洗礼者ヨハネは、人々が救い主イエス・キリストを信じて受け入れるように、その道を準備した人物です。現在の教会で行われる洗礼は、キリストを神の子と信じて、水に浸かって引き上げられることで、これから新しく生かされていくことを示し、信仰生活を支え合う約束をする儀式です。しかし、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼は、その先駆けとなった「悔い改めのバプテスマ」で、神の子である救い主を迎えるために、悔い改めて、罪を洗い浄めるための儀式でした。洗礼者ヨハネは、キリストが宣教を開始する前に、これからどんな方が来るかを伝え、その方を迎えられるよう、罪を赦してもらえるように、人々に悔い改めの洗礼を授けて、準備するよう促していました。
Q. イエスはなぜ、ヨハネから洗礼を受けたんですか?
A. 洗礼者ヨハネが行っていた洗礼は、「悔い改めのバプテスマ」で、悔い改めて、罪を洗い浄めるための式でした。つまり、本来、罪を犯していない神の子イエス・キリストは、受ける必要のなかった儀式です。しかし、キリストは、私たちが悔い改める必要のあるとき、上から見守っているのではなく、隣に来て、一緒に水の中へ浸かり、一緒に洗い浄められ、一緒に起き上がってくださる方として、私たちと同じバプテスマを受けてくださいました。準備ができていない人を見捨ててしまうのではなく、準備ができるように、一緒に付き合ってくださる方として、洗礼を受け、聖霊を受けたのが、救い主イエス・キリストです。
Q. 聖霊に満たされたイエスは、すぐに伝道を始めたんですか?
A. 洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、聖霊に満たされたイエスは、力に満ち溢れて、すぐに宣教を開始したわけではありません。なぜか、洗礼を受けて、聖霊に満たされてすぐ悪魔の誘惑を受けられます。しかも、40日にわたって荒れ野をさまよわされ、水も食事もとらなくなり、どんどん弱ってしまいます。もし、洗礼を受けた直後の人間が、このような目に遭ったら、自分は洗礼を受けたにもかかわらず、何日も誘惑に苦しめられ、力を失い、情けないことになっている……と思うかもしれません。聖霊が離れてしまった、聖霊が受けられなかった……と思うかもしれません。しかし、他ならぬイエス・キリストが、そうではないことを示します。洗礼を受けてからも、長期間誘惑に遭い、力が奪われていったとしても、それは、聖霊を受けなかったことを示すのではありません。洗礼を受けたあと、速やかに伝道が、新しい生き方が、始められなかったとしても、それは、聖霊が離れていったことを示すのではありません。あなたが誘惑を受けるとき、力を奪われるとき、キリストもあなたと同じ苦しみを受け、あなたと一緒に耐え忍び、共に歩んでいるんです。
Q. 荒れ野で悪魔の誘惑を受けたキリストは、どうやって悪魔を退けたんですか?
A. キリストは悪魔から「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ?」「神の子なら、屋根から飛び降りて無事なところを見せたらどうだ?」と試されて、本当に神の子なのかテストを受けました。しかし、そのどれもを断って、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」「あなたの神である主を試してはならないと書いてある」と答え、特別な力を使いませんでした。人間である私たちが、誘惑に抵抗するときと同じように、聖書の言葉を思い出して、自分に言い聞かせて、悪魔を退けました。実は、石をパンに変えたり、飛び降りても無事だったり、何か奇跡を起こせたら「神の子」と認められているのではなく、聖書の言葉を聞いて、神の言葉を思い出す人は既に、イエス様と同じ「神の子」とされているんです。「神の子なら奇跡を起こせるはずだ」と考えて、奇跡を起こせないことに落胆する人たちへ、聖書の言葉を思い出すなら、あなたはもう神の子とされているんだ、という大事なことをイエス様は伝えています。
Q. キリストに選ばれた12人の弟子たちは、どんな人たちですか?
A. イエスを信じて従った弟子はたくさんいますが、その中でも特別に選ばれた12人を「12使徒」や「12弟子」と言います。この弟子たちの中には、十分な教育を受けられる機会のなかった元漁師や、ローマ帝国の手先として税金を集めていた徴税人、過激な政治運動をしていた熱心党などの人間が含まれました。その多くは、周りから、あまり付き合いたいとは思われない人たちでした。また、「雷の子ら」と呼ばれるような気性の激しい兄弟や、疑り深い者、後に裏切ってしまう者もいました。普通は仲間にしようと思わない、ついてきてほしいと思わない人たちのことを、イエスは心から必要とし、「わたしについてきなさい」と声をかけていきました。
Q. 福音書によって、12弟子の名前が微妙に違うのはなぜですか?
A. イエスの12人の弟子は、ペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダがいます。同じ名前が出てくるので、ゼベダイの子ヤコブは「大ヤコブ」、アルファイの子ヤコブは「小ヤコブ」とも呼ばれます。また、福音書によっては、ナタナエルやアルファイの子ユダ、レビといった名前も出てきます。ナタナエルはバルトロマイと、レビはマタイと同一視されることもあります。名前が微妙に違うのは、人によって呼び方が異なったのか、もともとは別々の人物だったのが、どこかで同じ人物にまとめられてしまったのか、はっきりとは分かっていません。
Q. イエスの弟子たちは、仕事も家族も捨ててついてきたんですか?
A. 新約聖書には、イエスから「わたしに従いなさい」と呼びかけられた弟子たちが、家族も仕事も捨てて、すぐについてきた様子が描かれています。ただし、イエスは弟子たちに家族と縁を切らせたわけでも、家に帰らせなかったわけでもありません。むしろ、ペトロの家に行って、一緒に食事をしたり、姑の熱を癒したり、ヤコブとヨハネの母親と話をしたり、様々な場面で、弟子たちの家族も大事にしていたことが記されています。また、漁師だった弟子に、度々舟を出してもらったり、徴税人だった弟子に、お金の管理を頼んだり、それぞれの大切にしてきた技術や経験も、蔑ろにされませんでした。信仰のために、伝道のために、何かを捨てざる得ない場面があったとしても、キリストは、誰かが何かを犠牲にしたまま、切り捨てたままにさせておく方ではありません。もし、自分の信仰を証明するために、趣味や仕事や大切な関係を切り捨てるよう命じられたら、それは健全な態度でも、聖書的でもないことを思い出しましょう。
キリスト教全般に関する質問
Q. 洗礼式とは何ですか?
A. 洗礼式とは、信仰者になるための式で、バプテスマとも呼ばれます。キリスト教の入信式で、受洗希望者は「イエス・キリストを神の子、救い主と信じます」と公に告白し、信仰生活を支え合う仲間になることを約束します。同時に、教会の会衆も、この人の信仰を支えていくことを約束し、一緒に神の民に迎えられたことを宣言します。洗礼式では、キリストを知らない古い自分が死んで、新しく生かされることを示すため、全身を水につけてから起こされる「浸礼」か、頭から水をかけて清められる「滴礼」が行われます。これは、信仰者のゴールではなく始まりで、洗礼を受けたから、急に信仰が強くなるわけでも、清い生き方ができるわけでもありません。洗礼は、自分の生き方が神によって新しく変えられていくこと、自分が神の国に入るまで、神が付き合い続けてくださることを信頼し、周りにもその恵みを知らせていく、見えるしるしであり、証(あかし)です。
Q. 聖餐式とは何ですか?
A. 聖餐式とは、信仰者が信仰者であり続けるための式です。キリストが十字架につけられる前夜と、復活後に弟子たちと囲んだ食事を思い起こし、パンとぶどう酒をいただきます。将来、神の国の完成を祝ってキリストと共にいただく祝宴を先取りした儀式でもあります。現在では、お酒を飲めない人に配慮して、アルコールの入っていないぶどうジュースを用いることもあります。カトリックではほぼ毎週、プロテスタントでは月に一回程度、礼拝の中で行われます。この食事は、信仰を守っていることへの「ご褒美」ではなく、信仰を守るための「務め」として用意されるもので、自分の信仰が揺らいでいるとき、弱っているときこそ、信仰を新たにされるよう、パンと杯を受け取ることが勧められます。また、信仰を告白していない者、洗礼を受けていない者に対しては、共にパンと杯を受け取る日が来ますようにと、とりなしと祝福をしてくれる教会もあります。
Q. 結婚式は、キリスト教においてどんな意味がありますか?
A. 旧約聖書では、神と民との関係が、夫婦の婚姻関係にたとえられ、新約聖書では、結婚した夫婦の関係が、キリストと教会との関係をさす奥義であると言われています。カトリックでは、結婚式が洗礼式や聖餐式と同じく、神の神秘を現すしるし「秘蹟」の一つに数えられますが、プロテスタントでは、結婚を洗礼や聖餐と同じ「聖礼典」には含まないという違いがあります。時々、聖書の「神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という言葉から「結婚は男女以外認められない」と言われ、同性間のカップルが引き離されてしまうことがあります。また、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉から「一度結婚したら離婚してはならない」と言われてしまうこともあります。しかし、結婚式は、両者の関係を外から「こうでなければならない」と固定するためのものでも、無理に繋ぎ止めるためのものでもありません。両者の関係が、誠実に築かれていくことを願って行われるものです。大切なのは、聖書の言葉を律法主義的に適用しようとすることではなく、聖書全体が求めている、互いに思いやる関係を築いていくことです。