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そんな無茶振りされても【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》イザヤ書41:8〜16、ルカによる福音書9:10〜17

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「癒すことより難しい?」

イエス様が弟子たちに「こうしなさい」「ああしなさい」と言うことの中には、度々、無茶振りとしか思えないような内容がありました。たとえば、弟子たちに向かって、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力を授け、人々へ神の国について宣べ伝えるよう命じたとき、次のように言われました。
 
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも魚も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証として足についた埃を払い落としなさい」
 
ようするに、ほとんど何も持たせずに、あちこちの村や町へ遣わし、行き当たりばったりで、泊まるところを見つけて伝道しなさい、と言ったわけです。今、教会の牧師が、伝道師や神学生にこんなことを命じたら、とんでもないパワハラになるでしょう。下手すれば、派遣先の土地で、食べる物も泊まる所も見つからず、野垂れ死なせてしまうでしょう。
 
「資金は出さないし、取り引き先の世話もしないけど、新しい事業を始めなさい」と言ってくる悪質企業(ブラック企業)の上司のようにも見えてきます。いやいや、イエス様の場合は、弟子たちに何も持たせなかったわけじゃなくて、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになったじゃないか……と思われるかもしれません。
 
確かに、悪霊を追い出す力、病気を癒す権能が授けられていることは、訪れた町や村で大きな助けになったでしょう。すぐに弟子たちを「先生」と呼び、一生懸命、話を聞こうとする人が現れるでしょう。ところが、特別な力を持った先生に出会えたと思ったら、その弟子たちは、杖も、袋も、パンも、お金も持っていません。下着さえ替えがありません。
 
弟子たちは、特別な力を授けられたにもかかわらず、行く先々でお願いしなければなりません。「すみませんが、食べ物を分けてくれませんか?」「突然ですが、今夜泊まらせてくれませんか?」「よかったら、下着の替えを用意してもらえませんか?」……人々は弟子たちを見て、すごい人がやってきた、と思ったら、けっこう情けない姿で頼られます。
 
これじゃあ、弟子たちも偉そうにすることはできません。そう、イエス様は、弟子たちを送り出すにあたって、彼らが一方的に頼られるような関係は作らせませんでした。病気や悪霊に苦しむ人たちが弟子たちを頼り、食べ物や泊まる所がない弟子たちが人々を頼り、互いに助け合う関係を作らせました。
 
イエス様の「無茶振り」は、どんな困難に思えることも、信じて突き進めば叶えられるという話に受け取られがちですが、むしろ、どういう関係を作らせたかが大事なんです。後から美談にできる、奇跡的な体験をさせるために、弟子たちを送り出したのではなく、みんなと神の国に入る、互いに愛し合う関係を築くために送り出されたんです。
 
さて、そうやって送り出された弟子たちが、イエス様のもとへ帰ってきて、自分たちの行ったことを残らずイエス様に告げました。当然ですが、遠くまで旅をして、人々の病気を癒し、悪霊を追い出し、大声でイエス様の教えを伝えてきたので、もうヘトヘトです。すぐにでも休みたいと思ったでしょう。
 
そこで、イエス様は彼らを連れて、自分たちだけで、ベトサイダという町へ向かいました。ところが、ベトサイダにイエス様と弟子たちが来ていると耳にして、たくさんの人が集まってきてしまいました。「私もイエス様の話が聞きたい」「あの村で病気を癒した弟子たちに会ってみたい」「うちの子も悪霊から助けてほしい」
 
そうやって、休もうとしていた弟子たちのところへ、次々と人が集まってきます。弟子たちはすっかり困り果てました。「イエス様、もう遅いですし、今日は休みましょう。私たちも疲れているし、先生だって疲れています。みんなを帰らせて、今夜はゆっくりしましょうよ」……たぶん、そんなことを言ったんじゃないでしょうか?
 
けれども、イエス様は集まってきた人たちを見て、彼らを迎え、神の国について語り始めます。治療の必要な人たちを癒していきます。弟子たちも、ただ見ているわけにいかないので、イエス様と一緒に、集まってきた病人を癒したり、みんなが話を聞けるよう並ばせるのを手伝ったりしました。
 
やれやれ、もう一踏ん張りか……ところが、日が傾いて夕方になっても、人々は全然帰る様子がありません。このままじゃ自分たちも休めません。弟子たちはイエス様に懇願します。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
 
けれども、イエス様はこう返します。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」さあ、恒例の無茶振りです。さすがに、弟子たちも黙っていられません。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり……」
 
自分たちだけでも、このパンと魚の量じゃ足りないのに、成人男性だけで5千人、女性や子供も含めると、約1万人は集まっています。当然ですが、1万人分の食べ物を買いに行くなんて、金銭的にも物理的にも不可能です。長旅の後も休みなく働いてきた弟子たちはもう限界でした。そんな無茶振りされても困ります……と思ったでしょう。
 
そのとき、弟子たちは気づいていませんでした。群衆に対して求めたことが、派遣先の村や町で、自分たちを迎え入れなかった人たちと同じ反応だったことに……「うちに食べ物はありません。どこか他所をあたってください」「ここには泊められません。周りの村へ行って宿をとってください」
 
日が傾きかけ、暗くなってきた時間帯に、何度も、何度も断られ、ようやく、どこかに迎え入れてもらった経験が、弟子たちにはあったはずです。中には、「うちに泊めることはできないけれど、家畜小屋なら空いています」と案内してくれたり、「隣の友人の家に聞いてみましょう」と交渉してくれたり、何とか彼らが休めるように助けてくれた人たちもいたでしょう。
 
けれども、イエス様のもとへ帰ってきた弟子たちは、今度は自分たちが迎え入れる番になって、同じようにはできませんでした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とイエス様に言われたとき、自分たちにも何とかして食べ物を分け与えてくれた人たちがいたことを思い出せませんでした。ここまで勝手についてきた群衆が、自分たちで何とかするべきだと思ってしまいました。
 
そこで、イエス様は弟子たちに命じます。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」……そんなことしてどうするんだろうと思いながら、弟子たちは言われたとおり、集まっている人を50人ずつ組にして座らせます。すると、最初はただの群衆だった人たちが、家族同士、ご近所同士で固まってきます。
 
弟子たちの記憶に、以前、自分たちを迎えてくれた村の家、町の家族が蘇ってきます。ああそうだ、これくらいの時間に、空腹だったときに、私を迎えてくれた家があの村にあったな……深夜に食べ物を買いに行ってくれた家族がいたな……自分たちのご飯を半分にして、お皿に分けてくれた人たちがいたな……。
 
イエス様は続けて、5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱えます。当初は、ただの無茶振りとして、イエス様の言葉を聞いていた弟子たちも、進んで考え始めます。「何とかして、このパン切れを、この50人に行き渡らせよう。あの日、私のお腹を満たしてくれた家族のように」
 
当然ながら、みんなに行き渡らせるため、パンと魚を割いていけば、どんどん細かくなっていきます。人の手で5つのパンを1万人へ綺麗に分けることなんてできません。にもかかわらず、イエス様が裂いては渡し、切っては配らせるパンと魚は、いつまで経ってもなくなりません。人々の間に、十分な食事が行き渡ります。
 
どのようにしてパンが増えたのか、魚が多くなったのか、聖書は記してくれません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つ全ての福音書に記されているにもかかわらず、その増え方は描かれません。パンが大きくなったとも、魚の数が増えたとも書かれません。淡々と、人々に十分な量が行き渡り、みんなが満たされことが記されます。
 
この話は、「信じたら増えた」という単純な話じゃないんです。むしろ、パンや魚が増えると信じた人は出てきません。この話は、イエス様の言葉と呼びかけによって、弟子たちと群衆の関係が、新しく変えられた話なんです。かつて、あちこちの村へ遣わされた弟子たちに、今度は群衆の方が遣わされました。かつて、訪れた者へ食事を提供した群衆に、今度は弟子たちが食べ物を渡しました。互いに遣わされ、互いに分けていきました。
 
神の国の食卓は、こうして築かれていきました。神の国に迎え入れられる関係は、こうして築かれていきました。さあ、私たちもどこかへ遣わされ、誰かを迎える者として送り出されています。ただの無茶振りではなく、新たな関係を築けるように、イエス様に導かれています。共に、この食卓を囲みましょう。共に、賛美と祈りをささげましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。