監禁されている【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 フィリピの信徒への手紙1:12〜30
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
監禁されている……穏やかじゃないタイトルですが、実際に、フィリピの信徒への手紙を書いた宣教者パウロは、キリスト教を述べ伝えていたゆえに、何度か投獄されました。使徒言行録では、パウロがカイサリアで投獄され、ローマで自宅に軟禁された出来事が記されています。もしかしたら、他にも監禁された時期や場所があったかもしれません。
フィリピの信徒への手紙が、いつ、どこの国で書かれたのかははっきりしませんが、パウロが牢屋に囚われていたとき、獄中から書き送られた手紙として残されています。普通は、無実の罪で犯罪者として捕まったら、自分がどんな目に遭っているか、どんな助けを必要としているか、外の人たちへ必死に訴える文書になるでしょう。
ところが、この手紙の冒頭に出て来るのは、神への感謝と、フィリピの信徒のための執り成しです。今回、皆さんと読んだ12節以下も、助けてほしいこと、困っていることの訴えではなく、むしろ、牢獄の外へいる人たちを励ます言葉が語られていました。本来、逆ですよね? 外にいる人間が、監禁されている人間を励まそうとするのが自然です。
しかし、パウロが告げるのは、自分の状況を嘆く言葉でも、同情を引く言葉でもなく、何が希望かを説明している言葉です。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」
これも不思議な話ですよね。福音の前進、イエス様の教えと業、キリスト教の良い知らせを伝えようとする働きは、伝道者が監禁されたら、普通はストップするはずです。牧師が投獄されて、教会の礼拝に出られない。宣教師が捕まって、宣教旅行が中止になる……当然、信徒や他の伝道師も、途方に暮れてしまいます。
どうやって、礼拝を続けたらいいだろう? どうやって、教会を回したらいいだろう? 新しい人への伝道なんて、考えていられないでしょう。さらに、監禁されてしまったのがキリストのためであるならば、自分たちもキリスト教を広めようとしていたら、同じように捕まってしまうのでないか? そんな恐れも出てきます。
そう、パウロが監禁されているのは「キリストのため」「伝道のため」と知られたら、かえって、パウロと同じ使命を担う人が減っていくように思えます。「見てください、私はこういうことをして捕まりました!」って言われたら「じゃあ、同じことをして捕まらないようにしよう」って考えるのが普通ですから。
イエス様を信じて伝道したら、ああいうふうに捕まってしまう。神様に守ってもらえるどころか、自由を奪われ、監禁されてしまう。そんなものを信じて何になるのか? そんなことをして何になるのか? どんどん不審に思われるでしょう。ところが、パウロが捕まったのを見て、しかも、キリストのために捕えられているのを見て、キリスト教から離れるどころか、確信を得た人たちが出てきます。
しかも、逮捕を恐れて隠れるどころか、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を、神様の教えと業を語るようになっていく……にわかに信じがたいことです。信じがたいことですが、私はフィリピの人たちがパウロから受けたのと似たような励ましを、この華陽教会で受けたことがあります。
ちょうど昨日、夜中に電話がありました。急遽、病気のために、入院することになり、またしばらく、外へ出ることが、教会へ行くことが、できなくなるという知らせでした。その方は、長年、華陽教会の信徒をしておられる方で、何度も怪我をしたり、病気になったり、入退院を繰り返してきた信徒の方です。
首と頭を固定されて、寝たきりになっていた時期も、神経の痛みでほとんど寝られず、礼拝中に倒れてしまったこともありました。転んで腰の骨を折り、もう歩けなくなったかと思ったら、車椅子から歩行器になって、教会へ出てきたこともありました。もう、何度もそういう光景を見ているので、皆さんも誰のことか何となく分かると思います。
入院して、日曜日に教会へ行けなくなるとき、その人から電話がかかります。その知らせは、どう考えても、悲惨な報告です。また、自由がなくなります。また、外へ出られなくなります。しばらく教会のみんなと会えません。それなのに、この人が、電話で自分の状況を伝えるとき、励ましの言葉を探している私の方が、いつも励まされているんです。
何で、辛い状況のはずなのに、こんなに希望を持って話せるんだろう? 何で、自由が奪われた状況なのに、悲しく聞こえないんだろう? 何で、繰り返し酷い目に遭っているこの人が、神様と共に歩んでいると、神様に守られていると、確信できてしまうんだろう?華陽教会に長いこといる方は、たぶん同じ励ましをこの人から受け取ってきたと思います。
本人は、自分が入院するとき、動けなくなったとき、外へ出られなくなったときの報告を聞いて、私たちが、神様の力と励ましを感じているなんて、思っていないかもしれません。実際、何で確信を得られるのか、よく分からないんです。酷い目に遭っているのに、神様がこの人を守っている、この人と私たちを結んでいる。なぜかそう思わされてしまう。
病院から出られないにもかかわらず、自由に出られないにもかかわらず、この人の祈りは自由に神様を証ししてきました。誰が見ても、不自由な体でありながら、その体を、神様が支え、導き、用いてきたことを証しします。体の中に、建物の中に、閉じ込められないキリストの業が、私たちの間に広がっていきます。
しかも、一人じゃないんです。そういう人が、天に召された人も含めて、すぐ何人も頭に浮かんできます。不思議じゃないですか? 監禁されたり、病気になったり、怪我を負ったり、幾度も苦しみを受けてきた人たちが、その苦しみによって、私たちをキリストから遠ざけるどころか、キリストが共にいてくださる確信と救いを得させてきた。
30節でパウロはこういう言葉を残しています。「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」私も知っています。パウロと同じ戦いを戦っている人たちを。自由を奪われながらも、自由に戦っている人たちを。教会へ出てこられない人たちが、むしろ教会へ来ている人を励ましていることを。
だから、私もいつか、自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってもらえるように、皆さんのことを繰り返し思い出したいと思います。信じて、苦しみに遭っていることが恥ではなく、むしろ喜びであることを気づかせてくれた方々に、神様の癒しと、恵みと、励ましが、これからもありますように。
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン。
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