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軽んじられないように【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙4:6〜16
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
テモテへの手紙は、名前のとおり、宣教者パウロが自分の弟子テモテへ宛てた個人的な手紙として書かれています。しかし、実際には、パウロの弟子たちが後世の教会で読まれるように、パウロに教えられたこと、みんなで積み重ねてきたことを、パウロからテモテへの手紙という形で、残したものと考えられます。
ということは、テモテ個人に向けられているメッセージも、一個人だけでなく、現在の教会指導者や、指導者を迎えた会衆にも、向けられている言葉と言えます。確かに、1章から4章にかけて、指導者の在り方や、奉仕者の選び方、それぞれの心構えなど、明らかに、教会全体で共有されることを願って書かれたものになっていました。
それは、今回読んだ記事も同じで、テモテに向けて語っているように見せながら、同時に、テモテを迎える会衆に向けて、一緒に指導する長老に向けて、教会全体に向かって、語っている言葉になっています。その中でも、指導者と会衆、双方が、ドキッとする言葉がありました。
「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」……軽んじてはならないし、軽んじられてはならない……ものすごく、砕けた言い方をするなら、「嘗めてはならないし、嘗められてはならない」という話でしょうか?
何で、ドキッとするかと言えば、自分の責任を、立場の重さを、強く感じさせる言葉だからです。まだ若いからという理由で、軽んじられているようなら、奉仕者の責任を果たせていない、信心の鍛錬ができていない……そのように、責められている気持ちになります。若さを理由に、甘えていてはいけないと、警告されているんだろうか?
ちなみに、使徒言行録やコリントの信徒への手紙を読んで、テモテがパウロの弟子になってから、パウロが晩年になるまでの年月を考えると、テモテはこの時点で、少なくとも30代になっていたと思われます。それでも、教会では「若者」と見なされていたようです。もちろん、後期高齢化社会ではありませんから、30代が若者とはちょっと意外です。
どうやら、初代教会も、かなり年をとった人々に指導されていたようです。現在の日本における教会事情と重なるところがありますよね? その中で、自分は「若いから」という理由で、軽んじられないようにできているか? 信じる人々の模範として、きちんと振る舞えているだろうか? と問われるわけです。
まあ、バッチリ30代の私にとっては、耳が痛い話です。もう7年になりますが、主任担任教師、一発目の教会として赴任してきた新人教師……「まだ若いから」という理由で大目に見てくれないか? と考えたことがなかったとは、正直言えないと思います。最初の総会や役員会でのしどろもどろな自分を振り返ると、やっぱり恥ずかしくなってきます。
今だって、教会の中では若い方なので、それを理由に甘えたくなる瞬間が、ところどころでやってきます。経験が浅いから、成長途中だから、あまり多大な期待はしないでください、そんなに持ち上げないでください、と言いたくなります。「自分を低くして」「謙虚になる」と言えば聞こえはいいですが、むしろ、色々背負うのが怖いんです。
もしかしたら、テモテをはじめ、各地の教会へ遣わされる、若い指導者もそうだったのかもしれません。「私はまだまだ未熟です。むしろ、皆さんから学ばせてください」「自分はまだ、先生と呼ばれる段階ではありません。皆さんの力を貸してください」そうやって自分を低くするつもりが、軽んじてはならないものまで軽んじていたのかもしれません。
自分には、積み重ねられたものなんて「無い」かのように、教師として、しっかりと立てる力が「無い」かのように振る舞いながら、私のために、見えない力を積み重ね、支えてきた方の手を、振り払っていたのかもしれません。「わたしの軛を負いなさい」というイエス様に、「わたしは軛を負えません」と拒絶していた自分がいます。
手紙の著者は、テモテをはじめ、様々なスケールで指導者として立てられた者に、「教えなさい」「命じなさい」という言葉を繰り返し残しています。これは、私にとって、あまり好きな言葉ではありません。「教える立場」「命じる立場」に自分を置く、ということが、何だか上から目線のような、神に成り代わる者のような、不吉な感じがするからです。
しかし、反面、自分が「教える」「命じる」ことに対する私自身の嫌悪感には、「信頼の無さ」が隠れています。正しく教えられない者が、教える者となるように、正しく命じられない者が、命じる者となるように、過ちを正し、方向を正し、付き合い続けてくださる方が、私と共におられることへの、信頼の無さ。
パウロは弟子たちに言いました。「あなたの内なる恵みの賜物を軽んじてはなりません」そう、軽んじてはなりません。どんなに経験が浅くても、どんなに頭が回らなくても、私の内に、言葉と力と気づきをもたらす神様が、私を内から動かします。語れなかった者が語れるように、祈れなかった者が祈れるように、私たちを新しく立てられます。
さらに、パウロは弟子たちに思い出させます。「その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」そう、ただの人である私たちが、神様の言葉を教える者、神様の教えを命じる者とされたとき、送り出してくれた手がありました。それは、自分と同じように、神様に立てられ、支えられてきた人の手です。
牧師の按手を受けたとき、伝道師をしていた教会の先生が、私の頭に手を置いてくれました。私がどんなに拙くて、どんなに足りない者か知っている人が、「行きなさい」「わたしもあなたを遣わす」と送り出してくれました。私がどんな失敗をし、どんな課題を抱えているか、見てきた教会の人たちが、「行ってらっしゃい」と送り出してくれました。
それは、ここで私を迎えてくれた、華陽教会の皆さんも同じです。初めて、主任担任教師として、代表役員として遣わされたとき、「この先生、大丈夫かな?」と不安を露わにされてもおかしくないはずでした。まだ若くて、経験も浅くて、社会に出たこともない人間に、「先生」と色々聞くことは、抵抗があってもいいはずでした。
しかし、私は華陽教会に来てから、「若いから」という理由で、軽んじられた経験が一つも思い出せません。初めての総会、初めての葬儀、初めてのコロナ禍で、私が右往左往していたときも、「先生、どうしましょう?」「教えてください」と心から信頼して、頼ってくださいました。私が迷うときも、あきれないで、一緒に考えてくださいました。
たぶん、私が牧師になれたのは、私が牧師でいられたのは、皆さんが、私を牧師にしたからです。もし、私の言葉や行動が「信じる人々の模範」になり得ているとしたら、それは皆さんが、私にはたらく神様を信頼し、受け入れてくれたからです。皆さんが、私を「教える者」「命じる者」の使命から、イエス・キリストの軛から、離れないよう、繋ぎ止めてくれたからです。
だから、皆さんは私の模範です。いつか、私が隠退教師になるときの、若い指導者を迎えるときの、信徒と会衆の模範です。キリスト・イエスの立派な奉仕者の皆さんへ、神様の祝福が豊かにありますように。互いに、新たにされ続け、これからも支え合っていけますように。アーメン。
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