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血で清められる?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヘブライ人への手紙9:11~22

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 血を流すことなしには罪の赦しはありえない……聖書朗読の最後に出てきたこの言葉は少なからず、私たちをドキッとさせます。「血を流す」ということは「何かを犠牲にする」ということです。当然、血を流されたもの、犠牲になったものは、人にせよ、動物にせよ命を失うことになります。

 犠牲のもとに成り立つ救い……こう聞くと、手放しで受け入れるわけにはいかなくなってきますよね? 血を流すこと、何かを犠牲にすることが肯定されてしまう、支持されてしまう教えの先には、地下鉄サリン事件や集団リンチを引き起こした破壊的カルトと同じ展開が待っているかもしれないからです。

 もちろん、ヘブライ人への手紙に書かれている「罪の赦し」や「血を流す」という表現は、私たち人間が、自分の代わりに誰かを犠牲にすることや、自らを人身供犠のようにささげることで、罪が赦されるという教えではありません。むしろ、私たちが、そのような犠牲を強いたり、強いられたりすることのないように、神の子イエス・キリストが完全な献げ物をしてくださった、ということが書かれています。

 この手紙は、60年から、95年の間くらいに書かれた書物と言われています。つまり、キリスト教会が誕生してから、第二世代の信徒に向けて書かれた手紙……ユダヤ人からは異端とみなされ、ローマ帝国からは新宗教として警戒され、迫害が厳しくなりつつあった時代でした。

 読者の中には、キリスト教を信じているという理由で、公然と虐げられ、仕事を辞めさせられたり、財産を取り上げられたりした者もいました。救い主イエス・キリストが、再び天から降りてきて、地上に訪れる日を待ち望んでいた人たちも、その日が期待するほど早くは来ないかもしれない……と分かると、集会を怠るようになってきました。

 もしかしたら、キリストの再臨を待てなくなって、礼拝の意味を見出せなくなって、苦しい現実から逃れるために、もとの犠牲をささげる宗教へ、ユダヤ教へ舞い戻った人たちがいたのかもしれません。いつ来られるのか分からない、救い主の再臨を待つよりも、今自分たちの罪を清めるために、犠牲をささげる祭儀の方が、安心したのかもしれません。

 もともと、キリスト教のルーツであるユダヤ教では、良心に反する行動をしたり、神様の教えを守れなかったり、神と人との関係を度々壊してしまう人たちのため、年に一度、「贖罪日」という特別な祭儀がありました。レビ記16章には、民を代表する大祭司が、まず、自分と家族の罪を贖うために雄牛の血を携え、次に、民の罪を贖うために雄山羊の血を携え、「至聖所」と呼ばれる場所へ入っていくよう指示されています。

 その儀式の終わりには、雄牛の血と雄山羊の血の一部を取って、祭壇の四隅の角に塗り、血の一部を、指で七度祭壇に振りまき、イスラエルの人々の汚れを清めることになっていました。もちろん、その前には、犠牲にする動物を刺し殺し、バラバラにし、血と脂肪を分ける儀式が行われるため、かなり生々しい作業です。

 当然ですが、人間に対して同じことはできません。つまり、自分たちの罪を贖うために、償うために、赦してもらうために、自らの代わりの動物の血をささげることで、神様に悔い改めの姿勢を示し、罪で汚れた体を清めてもらう……という儀式が「贖罪日」の儀式でした。

 けれども、年に一度の贖罪日に、全ての人が集まれたわけではありません。エルサレムから遠くに住む者、病気の者、障害のある者は、贖いの儀式を行うために、神殿へ来ることが困難でした。加えて、病気や障害も、罪の汚れの一部とみなされたため、治るまで、神殿へ入ること自体、許されない人たちもいました。

 また、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダがバビロニアに滅ぼされ、神殿を破壊されたユダヤ人は、長い間、まともな祭儀ができませんでした。犠牲をささげることで罪を赦され、救われようとした人々は、何度もそれができない現実に立たされました。

 さらに、神殿で犠牲をささげられない間、神様の掟を守ること、律法を遵守することで、罪を赦され、救われようとした人々も、律法を裁きの道具にし、他者を評価したり、自分が安心するための定規にしてしまいました。「自分はここまで掟を守っているから大丈夫」「あの人はここまで守れていないから裁かれる」そんなふうに、他者を貶める人たちも出てきました。

 実際には、贖罪の犠牲をささげることも、神の掟を遵守することも、誰一人、完璧にはできませんでした。しかし、そんな私たちのために、この世へ遣わされたイエス様は、全ての人の罪が赦されるように、完全な献げ物をしてくださいました。それが、神の子であるキリストが、自らの意志で十字架につけられるという出来事でした。

 当然、イエス様が流された血も、生々しいものです。何度も鞭を打たれて血を流し、茨の冠をはめられて、棘が刺さった頭から血を流し、両手両足を十字架に釘付けられて血を流し、最後には槍で脇腹を突かれて血を流しました。本来なら、そのとき流された血は、人間が神の子を信じないで、命を奪った代償として、呪いの血となるはずでした。

 普通は、その血によって清められると考えるより、呪われてしまうと考えますよね……? けれども、イエス様は十字架にかけられる前、弟子たちと共にパンとぶどう酒を分けたとき、これから自分が十字架にかけられて流される血は、全ての人のために流される契約の血だと言いました。

 自分が血を流すとき、その血はみんなを呪うのではなく、新しく関係を結ぶために、何度も思い起こされるものとなる、と約束しました。その言葉どおり、キリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式では、ぶどう酒を分かち合うことで、イエス様が私たちのために血を流し、復活し、疑い、迷い、従えなかった私たちと、和解してくださったことを思い起こします。

 かつて、人々は自分の罪を赦されるため、贖罪日が来る度に、何度も犠牲をささげなければなりませんでした。何かを犠牲にしなければ、去年の罪も、今年の罪も、来年の罪も贖われず、救いに至ることができない……と恐れを持って暮らしていました。しかし、イエス様は、ただ一度、ご自身をささげられたことによって、全ての人に、罪の赦しをもたらしました。

 赦されるため、救われるために何かを犠牲にするのではなく、赦されたこと、救われたことを信じて感謝の応答をするように、新しい生き方をくださいました。イエス様によって、もたらされた罪の赦しは、救いの条件を満たすために、隣人を愛するのではなく、本当に隣人のために、隣人を愛することができるように、私たちの生き方を変えていきます。

 もう一度、そのことを思い起こし、安心して、主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える生き方へ、送り出されていきましょう。平和の源である神が、あなたがた一同と共におられるように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。