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破れはもっとひどくなる【元旦礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 マタイによる福音書9:14〜17
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
新しい年を迎えました。今日から2025年です。皆さんは、どんな気持ちで一年をスタートしたでしょうか? もしかしたら、まだ「スタートした」という感じじゃないかもしれません。クリスマスが終わって、冬休みに入って、一年で最もゆっくりできる正月です。今はまだ、何かを始めるというよりも、休んでいたい気分でしょう。
私もそうです。キリスト教では、イエス様の誕生を記念する、クリスマスの準備をする期間「アドヴェント」から一年が始まると考えるので、既に12月の頭から、新しい一年に入っています。とはいえ、教会の人たちも、クリスマスという大きな行事を終えてからまだ一週間……楽しかったけど、疲れが取れていないというのが本音でしょう。
けれども、聖書日課で指定されている、元旦礼拝の聖書箇所は、様々な働きを終えて、疲れの溜まっているイエス様に、容赦無く、論争が持ち込まれた話で始まっています。マタイによる福音書9章では、イエス様が自分の町へ帰ってきた途端、人々が体の麻痺した人を連れてきて、イエス様に癒してもらったことが書かれていました。
イエス様は、連れてこられた人を見て「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言いますが、それを聞いた律法学者は「この男は神を冒涜している」と考えます。病人が起き上がれない原因は、その人が罪を犯して、神の怒りを受けたからで、まだ癒やされていないのに、神の赦しを宣言するのは、あり得ないと思ったからです。
皆さんも、自分が病気になったのは、罪を犯して、罰を与えられたからだと考えたことがあるかもしれません。病気が治ったら、神様に、罪を赦してもらえたんだと感じられるかもしれません。反対に、病気が治らないのは、罪を赦されてないからで、神様が、まだ怒っているからだと考えるかもしれません。
しかし、そのような考えをしていると、イエス様は、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われます。「神様はまだ、自分を赦す気はないんだ」と考えてしまう私たちへ、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じます。体が麻痺していた人は、その言葉を聞くと、本当に起き上がり、家に帰って行きました。
次に、イエス様はそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と呼びかけます。彼はすぐに立ち上がって、イエス様に従い、自分の家へ連れていき、食事に招待しました。彼の仲間であった徴税人や罪人も大勢やって来て、イエス様や弟子たちと、同じテーブルに着きました。
けれども、ファリサイ派の人たちはこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難します。収税所にいたマタイのように、ローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を集める徴税人は、神様を裏切っている罪人で、関わってはならないと思われていたからです。
皆さんも、キリスト教を信じていたら、神様を礼拝する日曜日は、仕事を休んで礼拝に出るべきなのに、生活のため、仕事を優先してしまうとき、自分は神様を裏切っていると考えるかもしれません。日曜日、なかなか礼拝へ出られないのに、信仰者を名乗ることは間違っていると感じてしまうかもしれません。
しかし、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言って、彼らと食事を続けます。同胞のユダヤ人から「汚れた者」とみなされて、神殿で礼拝することのできなかった徴税人や罪人は、自分たちの家が、イエス様の訪れる「神の家」へと変えられていきました。
さて、病人を癒し、罪人を迎え、ひと段落したイエス様に、今度は洗礼者ヨハネの弟子たちがやって来ました。彼らは「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と訴えてきます。断食は、神様の前で罪を償う姿勢を示し、ユダヤ人は年に何日も断食を守り、悔い改めを表していました。
洗礼者ヨハネも、神様の約束された救い主を迎えるため、人々に悔い改めの洗礼を授けてきた人物です。そのため、ヨハネの弟子たちも、救い主に受け入れられるよう、悔い改めて、罪を赦されるように、断食を繰り返していました。ところが、ヨハネが「この方こそ救い主だ」と教えたイエス様は、弟子たちに悔い改めの断食を求める様子がありません。
弟子たちの中には、マタイのように徴税人だった者や、神の掟である律法を守れなかった者もたくさん居たのに、イエス様は彼らに断食させて、悔い改めを表すように求めません。それどころか、病人を見て、すぐに罪の赦しを宣言し、罪人と呼ばれる人たちと、平気で食事を共にします。
ヨハネの弟子たちは、救い主を迎える用意のなかった人たちが、罪の赦しを受けられる準備のなかった者たちが、イエス様に呼びかけられ、迎えられていくのを見て、激しく躓いてしまいました。「さっきまで、ユダヤ人を苦しめていた徴税人を赦すんですか?」「弟子として迎え入れるんですか?」「彼らは悔い改めて、罪を償ったと言えるんですか?」
皆さんも、自分が本当に悔い改めたのか、キリストの弟子にふさわしい者となったのか自信を持てないことがあるかもしれません。一年の始まりから、聖書の言葉に躓いたり、礼拝に行きたくないと思ったり、新しいことを始める気持ちになれなくて、本当は何か、自分を罰する必要があるんじゃないかと考えてしまうかもしれません。
しかし、イエス様は「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と語って、自分があなたと共にいる今、受け取ってほしいのは喜びだと訴えます。自分の身内として、友として、婚礼に呼んでもらえたのに、呼んでもらえなかった者のように、赦しを得られなかった者のように、悲しく振る舞わないでほしいと語ります。
そう、イエス様は「あなたの罪は赦される」と宣言した者たちに、悔い改めを求めるとき、ゴールで待っている方ではなく、一緒にスタートする方でした。横になっていた者と共に起き上がり、座っていた者と共に歩き始め、孤独だった者と共に食事をして、神の国へとたどり着くよう、付き合い続ける方でした。
イエス様は、自分が一緒に居ないかのように、赦すつもりがないかのように、私たちが振る舞うことを望みません。既に、イエス様の身内として迎えられたのに、まだ迎えられてないかのように振る舞うことは、救いを信じる信仰を育むどころか、救いが潰える恐怖を育ててしまいます。
「誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ」「誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる」……そう、イエス様のたとえは、もはや、あなたが古い者ではなく、新しい者に変えられたことを告げています。古い感覚に捉われず、新しい生き方をするように促します。
イエス様から「子よ、元気を出しなさい」と聞いたあなたは、元気を出したらいけない者ではありません。イエス様から「わたしに従いなさい」と聞いたあなたは、仲間になったらいけない者ではありません。イエス様から「婚礼の席に着きなさい」と聞いたあなたは、その席に着いたらいけない者ではありません。
新しい一年の始まりに、上手くスタートできなくて、さっそく躓いている方は、自分をゆるせなくなっている方は、一緒に神の祝福を受けてください。イエス様のもとに集まった病人に、罪人に、弟子たちに与えられた、一切れのパンを受け取ってください。共に、新しい力を受けて、送り出されて行きましょう。
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