何も持っていけないから【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ルカによる福音書16:9〜13、テモテへの手紙一6:1〜10
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
ルカによる福音書16章と、テモテへの手紙一6章が読み上げられ、多くの方は混乱したと思います。一方では、主人に不正を働く管理人が、褒められるたとえ話をされ、もう一方では、自分の主人を尊敬し、大事にしなさい、と勧める教えが語られました。結局、主人に忠実であればいいのか、主人を出し抜く賢さがいるのか、迷ってしまう話です。
道徳的には、自分の主人を尊敬し、熱心に仕えるよう勧めている、テモテへの手紙の方が、受け入れやすいかもしれません。しかし、これはこれで、奴隷制度に対する「支持」のようにも受け取れます。もちろん、聖書は人を分け隔てしないように教えているので、安易に奴隷制度を容認しているとは言えませんが、ちょっとモヤモヤするでしょう。
また、どちらの記事も、金銭を追い求めることに否定的で、「そんなことしても神の国に受け入れられるわけじゃない」という点で一致しています。ただし、こういった記事を悪用して、「金銭を持つことに執着するな」と強調し、無理に献金をささげさせ、信者の生活を困窮させる、悪質な教師も存在します。
どうにも厄介な聖書箇所です。特に、皆さんが不快に感じるのは、イエス様のたとえ話で、こう勧められたことでしょう。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」……いやいやダメでしょ。友達を作るためなら、尚更、不正にまみれた金を使っちゃいけません。そんなことして仲良くなっても、いつか裏切る人になりそうです。
「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と言うなら、主人に対して不忠実な管理人を、どうして誉められるでしょうか? 神様は、不義や不正を裁かれる、正義と公正を愛される方じゃないんですか? こんな問いが生まれるのは、たとえ話に出てくる「主人」が、神の国の所有者に、天の国の主人にたとえられていると思うからです。
実際、多くのたとえに出てくる主人は、たいてい天の国の主人である、神様のことか、イエス様のことを指しています。このたとえ話も、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉で締め括られており、本当の主人である神様に仕えるか、そうでない、仮初めの主人に仕えるか、二択を迫られる話になっています。
ここで振り返ってみましょう。たとえ話に出てきた管理人が、最後に仕えた主人は誰だったのか? 自分を迎え入れてもらうため、仕えることにしたのは誰だったか? 仕事を取り上げようとしている金持ちの主人か、その主人に借りのある貧しい人々か……答えは明白です。管理人が選んだ主人は、金持ちではなく、借金のある、貧しい人々でした。
普通、主人の財産を無駄遣いして、会計報告を求められ、「もう管理を任せておくわけにはいかない」と言われたら、何とかして、クビを防ごうとするでしょう。あるいは、主人の財産を持ち逃げして、どこかに隠そうとするでしょう。けれども、この管理人は、主人のもとで得たお金は、何一つ持っていけない、全て取り上げられることを知っています。
私たちが、この世で得られた金銭を、天国へ持っていけないように、管理人は、主人のところで得た金を、持っていくことができないと知っているんです。だから、自分を迎えてくれる、真の主人に仕えようと、貧しい人々の借金を減らしていきます。最初から、管理人の全てを取り上げるつもりだった金持ちは、この抜け目のないやり方を褒めました。
「やるじゃないか」と……実は、このたとえ話における、神の国の主人、永遠の住まいの主人は、金持ちの主人ではなく、お金に困っていた、貧しい人たちなんです。「不正にまみれた金」というのは、神の国へ持っていけない、この世の金銭のことなんです。言い換えれば、こうなります。
「天の国へ持っていけない、この世の金銭で友達を作りなさい。そうしておけば、金は持っていけないが、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」……実際、16章の後半に続く「金持ちとラザロ」のたとえでは、この世で友を作らなかったために、永遠の住まいに迎え入れてもらえなかった、金持ちの姿が出てきます。
2つのたとえが置かれることで、不正な管理人を雇っていた主人の正体が、実は神の国の主人ではなく、この世の仮初めの主人であったことが分かります。そして、仕えても、利得にならないように見えた、貧しい人たちこそ、主人であるイエス様と一緒に、神の国を受け継ぐ者だったんです。
なるほど、それなら、この世の金持ちに、自分の主人に、仕える必要はないですね。自分より給与の高い上司に、役職が上の人たちに、へりくだる必要はないでしょう……そう言う人たちが出てきたら、もちろん、そんな話じゃありません。テモテへの手紙は、信仰を理由にして、自分が仕えるべき相手を見下したり、軽んじたりすることを戒めています。
むしろ、「私の主人は神様だから、人間の上司には仕えません!」と言う人たちに、あなたは神に仕えているのではなく、自分を主人にしてないか? 神の言葉を都合よく使って、自分自身に仕えてないか? と問いかけます。議論や口論に病みつきになって、自分の訴えを押し通そうとする人たちを立ち止まらせます。
立ち止まらされた人の中には、教会の教師もいるでしょう。「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります」という教えは、信徒にお金を貯めさせないで、全て献金させようとする、悪質な意図で使われることもありました。
でも、そうやって献金を集め、自分の肥やしにしようとする教師たちを、最も厳しく、この手紙は批判しています。献金の求め方や使い方によって、ひどい苦しみに突き刺された者が大勢います。この教えは、誰かが一方的に搾取され、誰かが一方的に利得を上げる実践になってはいけません。
天の国に富を積むのは、互いに分かち合い、友となる歩みです。わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができません。ただ、永遠の住まいに迎え入れてくれる方、自分を受け入れてくれる友、本当に価値あるものを任せてくれる、真の主人に、仕える道が示されています。この方を求めて、行きなさい。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。