どうして今?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 コヘレトの言葉3:1~8、テサロニケの信徒への手紙一4:13~14
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
どうして今?……というタイミングで、誰かを見送らなければならないときがあります。まだ心の準備ができてないのに、十分な時を過ごせてないのに、大切な人が取り去られ、急に別れがやってくる……もっと人生を楽しんでほしかった、もっと報われてほしかった、そんな思いも出てくるでしょう。
あるいは、関係が壊れて治らないまま、ギクシャクしたまま、その時を迎えてしまった人もいるでしょう。相手にゆるしてもらえないまま、もしくは自分がゆるせないまま、誰かを見送った人がいるでしょう。私にも、そういう人がいて、思い返すと今でも心がモヤモヤします。
神様の存在を信じていると、もう一つ、恐れを感じることが出てきます。それは、神様を信じないまま、この世を去っていった人は、天の国で再会することは、できないんだろうか? 洗礼を受けずに、信仰を告白せずに死んでいった人は、神様に、天の国に、受け入れてもらえないんだろうか? という問いです。
もし、受け入れてもらえないのなら、死ぬ前に、何とか洗礼を受けてほしい、同じ信仰を持ってほしいと、誰もが願わずにいられません。あるいは、様々な事情で、洗礼を受ける決心ができない人、迷い続けている人も、このまま自分が死んだらどうなるのだろう……と不安でいっぱいになると思います。
自分の家が、他の宗教に所属していたり、大切な人が、他の神様を信じていたり、洗礼を受けることが難しい、信仰の話をすることが難しい家庭では、余計に、この不安が大きくなるかもしません。お寺で葬儀を挙げたあの人は、最後まで、信仰を共有できなかったあの人は、天国に入れないんだろうか?
聖書でも、「イエスを信じて眠りについた人たち」は、神様が「イエスと一緒に導き出してくださいます」と言われています。でも、イエスを信じないまま、眠りについた人たちは、どうなるんでしょう? 私たちの教会のお墓には、これまで見送ってきた故人の名前が刻まれていますが、その中には、幼くして亡くなった、子どもの名前も含まれます。
自分の口で、信仰を告白するのは難しい年齢です。生まれてまもなく、死んでいった子どもの中には、神様のことを知らないまま、イエス様のことを分からないまま、「信じる」という意識もないまま、亡くなっていった子が、大勢いるでしょう。「何事にも時がある」と言われていますが、「今じゃないでしょ」と言いたくなります。
この子を、この人を、取り去るなら、信じて眠りにつくまで、待ってくれてもいいじゃないですか? 私の祈りを聞いてくれてもいいじゃないですか? この「死」が「定められた時」であるなら、最初から、この人が神の国に受け入れられる可能性はなかったんですか? 信じて眠りにつけなかった人、信じる前にこの世を去ってしまった人は、神様の救いの計画に、入っていなかったんですか? そのように叫びたくなります。
けれども、「イエスを信じて眠りにつく」って、私たちが「信仰だ」とイメージするものと、ちょっと違うのかもしれません。聖書には、イエス様が、「あなたの信仰は立派だ」「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われる人たちが出てきますが、その人たちが、イエス様を「神の子」「救い主」と理解していたかは微妙です。
むしろ、預言者の一人と考えていたり、すごい人だけれど何者かは分からないと思っていたり、イエス様に対して、曖昧な理解を抱いている人が、大半だったと思います。弟子たちでさえ、イエス様を信じる一方で、イエス様の言葉を、「死んでから3日目に復活する」という言葉を信じていません。
兄弟ラザロを甦らせてもらったマルタとマリアも、「あなたの兄弟は復活する」と言われた言葉を、正面から信じることはできませんでした。一人息子を生き返らせてもらった、ナインのやもめも、イエス様が誰か、理解している様子はなく、甦った彼女の息子も、死ぬ前に、イエス様を信じていた様子はありませんでした。
私たちは「信仰を持つ」ということを、神様について、イエス様について、何を信じているかについて、はっきりと確信を持って言えること……とイメージしますが、イエス様が、その信仰を認めた人たちは、必ずしも、イエス様がどなたか理解していた者たちでも、イエス様の言うことを完全に受け入れられた者たちでもありませんでした。
弟子たちに至っては、イエス様が十字架にかかって殺される前、イエス様を見捨てて逃げた人たちでもありました。イエス様が復活して、空っぽになった墓を「見て、信じた」と書かれている弟子たちも、「イエスは死者の中から復活されることになっている」ことを「まだ理解していなかった」とも書かれていました。
彼らが「見て、信じた」ものは何だったんでしょう? 空っぽの墓を見ても、イエス様が復活したことを理解していなかったのに、何を「信じた」ことになるんでしょう? 答えは分かりません。ただ一つ言えるのは、イエス様が認める「信仰」は、私たちが、自分の力で理解して、獲得できるものではなく、イエス様の方から出会い、認めてくださるからこそ、与えられるものだということです。
このメッセージを聞いているあなたは、自分が信仰を持っている、確信を持っているとは思えないかもしれません。この世を去った親しい人に、信仰を見出すことは、できないかもしれません。しかし、イエス様は、多くの人から「あんな人に信仰があるなんて認められない」と思われていた、罪深い者、汚れた者、異邦の者に、「あなたの信仰が、あなたを救った」「これほどの信仰を見たことがない」と宣言し、「安心して行きなさい」と告げてきました。
信仰を認めるのは、あなたではなく、私でもなく、イエス様です。信じない者を、信じる者へ変えられてきたキリストです。私たちが信仰を告白し、洗礼を受けるのは、救いの条件を満たすためではなく、与えられた救いに対する感謝の応答です。だから、皆さんも安心して、天の国に迎えられた一人一人と、再会する希望を新たにしましょう。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。アーメン。
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