私を癒した人のせい【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨブ記23:1〜10、ヨハネによる福音書5:1〜11
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「背きの罪を赦された人」……たった今歌った賛美歌に、そんな言葉が出てきました。誰のことを、どんな人を、皆さんはイメージするでしょうか? 過ちを犯して、罪の意識にさいなまれ、「お赦しください」「助けてください」と首(こうべ)を垂れる、しょぼんっとした人でしょうか? 賛美歌の歌詞に出てくるのは、そういう感じの人でした。
自分勝手で、我儘で、嘘をついたり、人を傷つけたりして生きてきた。だけど、あるとき、事故に遭って、病気になって、とことん苦しむことになった。そんな中、これまでの人生を振り返り、自分がしてきたことの報いを受けたのかもしれない……と後悔し、「神様私が悪かったです。どうか今までの罪を赦してください」と反省する。
すると、憐れみ深い神様は、その人の罪を赦して、病気を癒し、事故から助け、苦しみから解放してくださる……そんなイメージがあるでしょう。神様に助けてもらえるのは、奇跡を起こしてもらえるのは、悔い改めて、謙虚になり、誠実な謝罪と感謝ができる、心を入れ替えた人、正しくなった人、改心した人だろう、と。
けれども、ヨブ記に出てくる人のように、家族を失う事故に遭い、財産も消え、自分自身も重い病になったけど、神様に罰を受けるような、悪いことなんてしていない、むしろ誠実に生きてきた……という人もいるでしょう。決して、驕りとか、自惚れとかではなく周りから見ても良い人なのに、酷い仕打ちを受けてきた人がいるでしょう。
神様に、思う存分、私の言い分を述べたい……私は悪くない、こんな目に遭う謂れはない! 神様、あなたは、私がどう生きてきたか知っているはずです。これが罰なら、私に見合わないことが分かるはずです。どうか、私の人生を顧みてください。こんな仕打ちはおかしいと認めてください。私は間違っているでしょうか?
ヨブの叫びに、共感できる人も多いんじゃないでしょうか? 赦してくださいと願う前に、まず、自分の言い分を述べたい。そもそも、何が悪かったのか、何で罰を受けたのか分からない。もし、私が気づいていなかった罪があるなら言ってください、教えてください。神様の方が間違っていると感じたまま、謝らせないでください。
そういうふうに、神様へ思いをぶつけることも、決して間違っていないんです。ヨブ記をはじめ、哀歌や詩編など、神様へ不服を訴える祈りが、多くの書物に残っています。そして、イエス・キリストの3回目の奇跡が描かれる、ヨハネによる福音書5章では、罪の告白も謝罪もなく、罪の赦しを願うこともなく、ただ不満を述べた男が癒されます。
その人は、38年間、病気で苦しんでいる男でした。何の病気かは記されませんが、まともに体を動かせない病気か障害だったのでしょう。彼は、「ベトザタ」と呼ばれる池の近くに横たわって、水が揺れ動くのを待っていました。彼の他にも、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、周りに大勢横たわっていました。
なぜなら、この池は、主の使い、天使がときどき降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされる……と言われていたからです。そこへ通りかかったイエス様は、男が長い間病気であるのを知って、こう聞かれます。
「良くなりたいか?」……変な質問ですよね。良くなりたいから、池のそばにいるんです。治りたいから、ここにいるんです。というか、体が自由に動かないのに、良くなりたくないわけがありません。おそらく、この男に、こんな質問をしてきた人はいなかったでしょう。むしろ、男に投げかけられてきたのは、こんな質問だったでしょう。
「なぜ、こうなったのか?」「どんな罪を犯したのか?」「ちゃんと神様に悔い改め、赦しを願ったのか?」……家族を失い、財産も消え、病に侵されたヨブに対し、お見舞いに来た友人が、次々と浴びせた言葉がそうでした。「どんなことをしたのか?」「きっと悪いことをしたはずだ」「早く謝って、罪を赦してもらいなさい」
けれども、イエス様がこの男に聞いたのは、彼の言い分です。「良くなりたいか?」最初から彼の願いを、どうしてほしいかを問われます。男は答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
自分を放置し続けてきた周りの者への不満です。何で、助けてくれないのか? 私が苦しんでいるのを、みんな知っているはずなのに……考えてみれば、38年間、病気で苦しみ、長い間、池のそばで横たわっていた彼のことを知らない人は少なかったはずです。だって、他の人が家族や友人の手を借りて、池に入れてもらえる中、彼はずっと一人です。
「あの人、まだ池のそばにいるよ」「まだ治してもらえてないみたい」……けれども、彼の苦しみを知る人たちは、手を貸そうとはしてくれません。自分が池に入って癒やされた後、「あなたも長い間、池のそばで待っていたよね」と助けてくれる人は現れません。なぜでしょうか?
正直、嫌われていたんじゃないかと思います。男はずっと、不満を持っていました。自分が池へ入る前に、誰かが先に入れてもらう度、叫んでいたかもしれません。「何でそいつが!」「俺が先だ!」「どうして待ってくれないんだ!」……先に、池へ入って癒やされた者も、次は彼のために手を貸そうとは思えなかったのかもしれません。
もしかしたら、3人の友人に「反省しろ」「何か罪を犯したはずだ」と言われ続けてきたヨブが、そのまま、自分の言い分を聞いてもらえないままだったら、この男と同じようにみんなから避けられ、嫌われ、相手にされなくなっていたんじゃないかと思います。私は悪くない! それなのに、みんな私を悪いと言う! 私の罪を探そうとする!
男は長い間放置され、どんなに叫んでも、どんなに訴えても、自分の言い分を聞いてもらえず、余裕も消えていきました。「助けてくれ」「池の中に入れてくれ」と周りにお願いすることもできなくなり、どうせ、私の頼みを聞いてくれる人はいないのだ……と、不満ばかり漏らすようになりました。
イエス様と出会ったときも、彼の態度に反省や謙遜は見出せません。それ以前の問題です。長期間、誰にも言い分を聞いてもらえなかったゆえに、これ以上、自分を否定されること、自分が非難されることに耐えられなくなっていました。だから、男は助けてくれない周りを非難し、イエス様に助けられたあとも、恩を仇で返します。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」……イエス様にそう言われて、すぐに良くなったこの男は、その日のうちにユダヤ人たちと出会って、こう責められます。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」……すると、彼は自分は悪くないと、ユダヤ人たちに弁明します。
「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」……さらに、後からイエス様と再会し、名前を知ると、わざわざユダヤ人たちに「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせて、罪をなすりつけてしまいます。イエス様に「もう罪を犯してはいけない」と言われていたにもかかわらず。
そう、イエス様に癒やされた男は、決して、心を入れ替えた人でも、正しくなった人でも、改心した人でもありませんでした。むしろ、癒やされたのに、恩人を敵へ売り渡す、歪んだ自己保身を続けてしまう人でした。この後、予想されるのは、恩を仇で返してしまったこの男が、自らの罪の報いを受けて、「もっと悪いこと」が起こることです。
けれども、聖書には、この男が後から罪の報いを受けたとは記されません。むしろ、彼に警告してくれたイエス様の方が、自ら、神を御自分の父と呼び、ユダヤ人たちの怒りを買って、男の代わりに責めを受けます。癒やされた男に降りかかるはずの「もっと悪いこと」を引き受けて、十字架へつけられていきます。
いかに幸いなことだろう。背きの罪を赦された人……礼拝の中で交読した詩編にも、メッセージの前に歌った賛美歌にも出てきたこの言葉……改めて振り返ると、心からそのとおりだと思います。神様が遣わした救い主イエス・キリストから、背きの罪を赦された人たちは、みんな一杯一杯でした。
自分自身を省みることも、謝罪することも、感謝することもままならず、これ以上傷つくのを恐れて、恩を仇で返すほど、歪められた人たちでした。私たちも度々、同じ状況に陥ります。癒やされてなお、助けられてなお、イエス様を盾にして、自分を守ってしまいます。けれども、この方は本当に、私たちがどう生きてきたかを知っています。
どれだけ傷つき、どれだけ耐えて、どれだけ歪められたか知った上で、私たちを癒し、助け、友人で居続けてくださいます。名前も聞かず、感謝も述べずに立ち去っても、再び出会いに来て、新しい生き方を示し続けてくださいます。本当の癒しは、私たちが知るべき奇跡は、この方が、どこまでも私たちを放置せず、出会い続けてくださることです。
罪を犯したまま、悪いことが起こるかもしれないまま、私たちを放置しない、真の友人が、今日も会いに来てくれます。私たちの言い分を聞いて、「起き上がりなさい」「あなたは良くなったのだ」と罪の赦しを宣言します。あなたも起きて、床を担いで歩きなさい。この方を、もう一度探しに行きなさい。喜べ、神に従う人。歌えよ、心の正しい人。
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