それがどなたか分からない【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 イザヤ書61:1〜3、ヨハネによる福音書21:1〜14
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
イエス様が十字架にかかって死んだ後、三日目に復活したとき、それを聞いた弟子たちは、誰一人信じることができませんでした。マグダラのマリアが、空っぽになった墓を見て、復活したイエス様と出会って、「わたしは主を見ました」と伝えても、弟子たちはイエス様を迎えに行かず、戸に鍵をかけて閉じこもっていました。
その後、イエス様は、弟子たちにも会いに行き、戸に鍵をかけた家の中に現れました。「あなたがたに平和があるように」と語り、ご自分の手とわき腹の傷跡を見せ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と促しました。最初は信じなかった弟子たちも、復活したイエス様と直接会って、姿を見せられ、信じるようになりました。
ところが、彼らは最初にイエス様と再開したとき、それがどなたか分からない様子を見せました。マグダラのマリアは、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声をかけられたとき、それがイエス様の声だと気づかず、後ろを振り向いて姿を見ても、イエス様だと分からずに、園丁だと思って泣いていました。
ルカによる福音書では、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていた2人の弟子が、復活したイエス様と出会いますが、話しかけられても、顔を見ても、それがイエス様だと分かりません。ちょうど「死んだはずのイエス様が甦った」という話について、本人の目の前で話していたのに、目の前の人がイエス様だと気がつきません。
さらに、マタイによる福音書では、弟子たちがガリラヤでイエス様と再会したとき、ひれ伏す弟子がいた一方、まだ、疑う者がいたことも書かれています。目の前で会って、直接姿を見て、直接声を聞いてなお、すぐには信じられなかった、すぐにはイエス様本人だと分からなかった弟子がいました。
それでも、家の中まで入ってきたイエス様と再会した後であれば、イエス様と一緒に食事をし、「本当に甦ったんだ」と気づかされた後であれば、もう、迷ったり、疑ったりする心配はないよね……と思うかもしれません。自分だって、神の子であるイエス様を、救い主キリストを直接見れば、もう迷わずに信じられる……と思うかもしれません。
ところが、先ほど読んだヨハネによる福音書の21章では、復活したイエス様と3度目に会ったときも、それがどなたか分からなかった弟子たちの様子が描かれます。しかも、この時一緒に居た弟子たちは7人で、最もイエス様を慕っていたペトロ、ヤコブ、ヨハネの他に、イエス様と印象的な再会をした直後のトマスもいました。
それなのに、夜が明けたころ、だんだん明るくなっていく中、湖の岸に現れたイエス様を見ても、それがどなたか誰一人分かりません。「子たちよ、何か食べる物があるか」と聞かれても、気づく様子がありません。今回も、日が射してきた屋外でイエス様の姿を見ているのに、直接声を聞いているのに、イエス様だと分からないんです。
その日は、ペトロが「漁に行く」と言い出し、「わたしたちも一緒に行こう」と他の弟子たちもついてきて、舟を出した翌日でした。食べ物がなかったんでしょう。彼らは、イエス様を十字架にかけたユダヤ人たちが、自分たちのことも捕えて処刑するんじゃないかと恐れ、家に閉じこもって過ごしていました。
復活したイエス様と出会った後も、日中から、あちこち外へ出掛けていく勇気はなく、そのまま人目を避けて、暮らし続けたんだと思います。「皆さん聞いてください、イエス様は甦りました!」「約束していたとおり、3日目に復活したんです!」と会堂や神殿で、広場や往来で、声を張り上げて伝える姿はありません。
むしろ、何日も閉じこもっていたせいで、食べる物がなくなり、買い物に行くか、漁へ行く必要に迫られます。当然、買い物へ行けば、顔を見られるため、彼らは夜中にこっそり舟を出して、魚を取るしか選択肢がなかったんでしょう。どうも、イースターにイエス様と再会して、何もかも上手くいくようになったわけではなさそうです。
彼らにはまだ、「イエス様が帰ってきた」という良い知らせを、大々的に伝える勇気も、イエス様を信じない人たちへ立ち向かう勇気もありません。「イエス様がいるからもう大丈夫」「怖い物なんてない」というふうに、堂々と過ごせたわけでもありません。その日、その日を生きていくので精一杯です。
さらに、彼らは夜通し漁を続けますが、魚は一匹も取れません。早くしないと、明るいところで、自分たちが勝手に誰かの舟に乗り、勝手に誰かの網を借り、こっそり食べ物を得ようとしているところへ「あいつはイエスの仲間じゃないか?」「こんなところにいたぞ!」と見つけられてしまうかもしれません。
夜が明けた頃、弟子たちはとても焦っていたでしょう。何もかも、上手くいかないと思っていたでしょう。イースターを迎えた後で、イエス様の復活を知った後で、希望と喜びに満ちた時間はすぐに過ぎ去り、現実の問題が覆い被さってきました。食べ物が得られない、敵に見つかるかもしれない、このままじゃ生活できない。
そんな中、誰かが声をかけてきます。「子たちよ、何か食べる物があるか」……それが、イエス様だと気づかなかったのに、彼らはなぜか、誰かが声をかけてきたことに、不安を一切覚えません。普通なら、「誰かに見つかった」「ユダヤ人だろうか?」「捕まる前に早く陸へ戻らなければ」と焦るところですが、弟子たちは普通に返事をします。
「ありません。夜通し網を打ったんですが、一匹も取れなかったんですよ」……読者の私たちには、いつだったか、弟子たちが夜通し漁を続けて、一匹も魚が取れなかったときイエス様が現れて、網を下ろすように言った瞬間、大量に魚が取れた出来事が思い出されます。
しかし、弟子たちは、あの時と同じように「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とイエス様に言われても、まだ、それがどなたか気づきません。言われるがまま、網を下ろして、魚が大量にかかった瞬間、ようやく、弟子の一人が「主だ」と気がつきます。
いや、遅いよ……と突っ込みかける中、ペトロも慌てて、イエス様のもとへ泳いでいきます。イエス様との距離は、200ペキスばかり……100メートルもありませんでした。なぜ、顔を見ても気づかなかったのか、声を聞いても分からなかったのか、不思議なくらいです。
ただ、明らかなのは、再び、イエス様と出会っても気づかなかった弟子たちのために、イエス様は陸の上で炭火をお越し、魚とパンを用意して、待っておられたことです。この当時、炭火を起こすには、それなりの時間がかかりました。パンと魚が焼けているということは、けっこう前から、たぶん暗いうちから火を起こしていたはずです。
夜通し漁をしている弟子たちが、暗闇で火を起こしている自分に気づかず、網を打ち続けていた中、イエス様は彼らのために食事を用意して待っていました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」……それは、「何で私だと分からなかったのか?」という非難でも、「今は私が誰か分かるのか?」という試みでもなく、「おいで」という招きでした。
もはや誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。当たり前です。目の前にいるのは、復活して、自分たちに再会してくださったイエス様です。一緒に食事をした、一緒に話をしてきたイエス様です。ここまで気づかなかったことの方が、不自然であり、奇妙なことです。
けれども、彼らがこの方に問いたださなかったのは、「主であることを知っていたからである」と聖書はわざわざ続けます。いや、「知っていたから」って言うか、直前まで忘れていたじゃん……分かっていなかったじゃん……もう三度目なのに……と言いたくなる私たちへ、今イエス様だと分かった彼らが、「主であることを知っていた」と伝えてきます。
そうなんです。分かっていなかったけど、気づいていなかったけど、知っていたんです。声をかけられた瞬間、逃げ出すことも、「お前は誰だ?」と問いただすこともせず、その人の言うことに従って、網を下ろした弟子たちは、分かっていなかったけど、知っていたんです。自分たちに近づいてきたのは誰か、声をかけてきたのが誰なのか。
「私が分かるか?」「誰だと思うか?」イエス様は問われません。あなたは知っているはずだと、もう分かるはずだと、弟子たちを信頼して、朝の食事を振る舞います。火を起こしているときには気づいていなかった、だいぶ早くから居たのに分かっていなかった、日が昇っても、声をかけても、すぐには自分が誰か悟らなかった彼らのために。
私たちも同じです。復活したイエス様と出会っても、いつの間にか、そばに居てくださる主のことが、分からなくなります。一緒にいるのに、近づいているのに、そのことが信じられなくなったり、私から離れてしまったんじゃないかと疑ったりしてしまいます。何度も、何度も、見失います。
けれども、イエス様は、私たちが自分のことを知っていると言われます。見ても気づかないのに、聞いても分からないのに、気づくまで、分かるまで、近づき続けてくださいます。「分からないなら、もう知らない」と見捨てるようなことはなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と待ち構えておられます。一緒にパンを分けようと。
だから、来て、見なさい……この方はずっと前から、あなたのことを待っていました。何もかも上手くいかないと、希望も、喜びも、持てなくなったあなたのために、火を起こして、魚を焼いて、一緒に食べるため、待っていました。あなたが「主だ」と言って駆けつけるのを、信じ続けて待っていました……だから、来て、見なさい。
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