審判者が来られるとき【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙二4:1~8
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
テモテへの手紙二の後半は、新共同訳の見出しで「終わりの時の人々の有様」「最後の勧め」と出てくるように、世の終わり、終末に関する記述が出てきます。4章でも、手紙の著者が自らの「死」と「最後の審判」を意識して、読者へ教えを語っていました。冒頭の「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス」という言葉は、教会で毎週唱える『使徒信条』にもありましたよね?
「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまはん」……文語訳だとちょっと難しいので、口語訳で読み直すと、次のようになります。「(主イエス・キリストは)そこ(天)から来られて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」……「死んだ者」や「裁き」という言葉が出てくると、どうしても、おどろおどろしく感じますよね。
また、生きている人を裁くのは分かるけど、死んでしまった人までどうやって裁くのか? と思われるかもしれません。実は、キリスト教では、十字架にかかって復活し、天に昇ったイエス様が、世の終わりに、再び地上へやって来て、死んでいた者は生き返らされ、生きている者と一緒に、最後の裁きを受けることになる……と教えています。
その後、神の支配を完成させたイエス様が、私たちみんなを神の国へ迎えられる……というのが、キリスト教の終末思想です。4章にあった、「その出現とその御国」というのもまさに、イエス様が、世の終わりに地上へ来臨されること、神の支配を完成させ、神の国を到来させることを指しています。
先日の日曜日、私たちの教会では、召天者記念礼拝を行い、やがて来たる神の国で、天に召された方々と、再び会える希望を新たにしました。私たちは、「天国」と聞くと、単に「死んだら行くところ」というふうに捉えてしまいますが、実は、「天の国」「神の国」の方から、私たちのもとへやって来て、私たちを迎え入れてくれるんです。
聖書には、その日が来るまで、死んだ者は眠っている、あるいは、天において、神様を礼拝していることが記されています。そして、「主の日」と呼ばれる世の終わりには、イエス様がみんなを起こし、新しい体、朽ちることのない体に復活させ、朽ちることのない神の国に迎えてくださると教えられます。
けれども、この終末に関する預言は、陰謀論やオカルト思想と結びつき、あちこちで、人集めや支配の道具に、利用されるケースが見られます。特に、審判者が来られるとき、最後の審判は、神の国に迎えられるか、滅びに定められてしまうのか……に関わるため、教会も、人々の恐怖を煽って信者を集め、コントロールする方向へ、度々押し流されてしまいます。
なぜなら、世の終わり、終末に関する記述は、聖書の中でも、抽象的な表現や、象徴的な表現が最も使われているため、あらゆる事象と結びつけやすく、「○○と書いてあるのは○○のことだ」「××と言われているのは××のことだ」というふうに、誰でもそれっぽく言えてしまうからです。
たとえば、「小黙示」と呼ばれるマタイによる福音書24章には、世の終わりに、偽メシアや偽預言者が出現し、戦争の騒ぎや噂が起こり、民と民・国と国とが対立し、飢饉や地震に襲われて、迫害や殉教、背教と裏切り、不法が蔓延することが書かれていました。これって、今起こっている出来事と、結びつけようと思ったら簡単に結びつけられますよね?
自分のことを再臨したキリストだと言って、信者を集める偽メシアは、この時代にもたくさんいますし、戦争の騒ぎや噂は何度も起こっています。民と民・国と国との対立は、見てのとおり事欠きませんし、実際に大きな戦争や衝突が起こっています。飢饉や地震などの自然災害は記憶に新しいですし、迫害や弾圧も、いくつかの地域で、現在進行形の話です。不法の蔓延も、政治家の汚職や、役人の不正で見慣れたものですよね。
ただ、これらの事象は、新約聖書が書かれた頃も、それ以降も、今に至るまで、繰り返し見られてきた現実です。当てはめようと思えば、いつの時代も当てはまります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」と言われているように、聖書の記述と一致する出来事が起きたからと言って、終末の時期を予測することはできません。
それでも、目の前の出来事を、世の終わりと結びつけて、まもなく、最後の審判が訪れる! と言い出すところが続発するのは、それだけ、辛く苦しい現実があり、悪が力を振るったまま、終わりを迎えてしまうんじゃないか? このままじゃ、救いを得られることなく、滅ぼされてしまうんじゃないか? という不安に襲われているからだと思います。
私たちも、何か大きな事件や災害を前にすると、これは偶然じゃなくて、自分が神様を怒らせたからじゃないか? 正しいことをしないで、間違ったことを続け、神様に背いていたから、裁きが下ったんじゃないか? と考え、より深刻な裁きに遭わないよう、身の振り方を改めることがありますよね。
最後の審判に関するたとえ話も、主人に忠実でなかった悪い僕が、厳しく罰されてしまったり、主人の迎えに間に合わなかった愚かな僕が、家から締め出されてしまったり、主人の期待に応えられず仕事を怠けていた僕が、外の暗闇に追い出されたり、神に背いた人々が、深刻な裁きに遭う様子が、続けて描き出されています。
さらに、ヨハネの黙示録では、死んだ者たちが、彼らの行いに応じて裁かれ、「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」と出てきます。こんなこと聞いたら、そりゃみんな、最後の審判が来る前に、何とかして救われようと、間に合わせようと必死になりますよね。
でも、最後の審判のたとえ話で、厳しく罰され、締め出され、暗闇に追い出された悪い僕、愚かな僕、怠け者の僕の姿は、よく見ると、イエス様が復活したとき、まともに迎えられなかった、弟子たちの姿と重なります。
マタイによる福音書24章46節には、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と書かれていますが、イエス様の弟子たちは、甦ったイエス様が帰ってきたとき、誰も、イエス様に言われたこと、「3日目に復活する」という約束を信じて待っていませんでした。
マタイによる福音書25章では、主人の帰宅に間に合わず、迎えにいけなかった「愚かな僕」が書かれていますが、イエス様の弟子たちも、イエス様が復活して帰って来た日、まともに迎えることができた人は、一人もいませんでした。むしろ、戸に鍵をかけて、イエス様を締め出していました。女性たちが「復活したイエス様に出会った」と言っていたにもかかわらず。
イエス様が捕まって、十字架にかかった後、何もしないで、家の中に閉じこもっていた彼らの姿は、イエス様がした「タラントンのたとえ」で、主人から預かった金を地面に埋めて、何もしないで隠していた「怠け者の僕」と重なります。こうして、思い返してみると、イエス様に従った弟子たちで、最後の審判に耐えられる者は、一人もいなかったことが分かります。
けれども、私たちは知っています。悪い僕、愚かな僕、怠け者の僕だった弟子たちに、決定的な瞬間に、イエス様が帰って来る日に、救いようのない姿を晒した弟子たちに、死を越えて会いに来たイエス様が、最初に告げたその言葉を。「あなたがたに平和があるように」……それは、本来、滅びを免れない彼らに、赦しと命が与えられた宣言でした。
テモテへの手紙の著者として、名前が出てくる宣教者パウロも、復活したイエス様の幻と会ったとき、その用意ができていない者でした。イエス様を信じる者を迫害し、弟子の処刑に賛成し、そんな自分が正しいと思い込んでいる者でした。彼もまた、その名を命の書に書き記されるはずのない、滅びを免れないはずの者でした。
ところが、イエス様は、そんなパウロに姿を現し、「わたしに従いなさい」と声をかけ、信仰の戦いを立派に戦い抜くよう、聖霊を注いで遣わしました。審判者が来られるとき、神の国に迎えられるはずのなかった者たちは、その命を新しくされ、キリストに従う者へと変えられてきました。終わりの日に訪れる裁きも、私たちを恐怖でコントロールするような、歪んだ支配ではありません。
だから、折が良くても悪くても、この良い知らせを語り伝え、身を慎んで、苦しみを耐え忍び、自分の務めを果たしましょう。正しい審判者である主が、かの日に、義の栄冠を授けてくださいます。真理から耳を背け、作り話の方にそれて行かないように、主イエス・キリストの教えと業を、その出会いを、繰り返し思い起こしましょう。
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