日曜礼拝【キリストがあなたに住む】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ペトロの手紙一2:11〜25
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
今日は、礼拝の中で洗礼式が行われます。洗礼式は「キリスト者になるための式」……いわゆる入信式のことです。別名「バプテスマ」とも言われます。文字通り、洗礼は全身を水に浸して、あるいは、頭から水をかけて、洗い清められる儀式です。水の中から起こされる、引き上げられることによって、キリストを知らなかった古い自分が死に、キリストと出会った新しい自分へ甦らされたことを現します。
私が洗礼を受けたのは、中学一年生の頃です。父は牧師、母はオルガン奏者をしている家庭で、双子の弟が「僕も洗礼を受けたい」と言い出したのがきっかけでした。幼い頃から教会で過ごし、聖書の話を聞いてきたので、いつから信じるようになったかは分かりませんが、私も「神様を信じている」という気持ちはありました。
しかし、弟のように「洗礼を受けたい」と言い出すつもりはありませんでした。むしろ弟が言い出さなければ、大きくなったら、教会へ行くのをやめるかも……くらいに思っていました。神様は信じているけれど、教会へ行き続けることは、礼拝に出続けることは、そんなに乗り気じゃなかったんです。
なぜなら、教会は私にとって、良いことばかりじゃありませんでした。日曜日は礼拝があるので、ゆっくり朝寝坊することはできません。遊びに行きたくても、朝はとりあえず礼拝に出なくてはなりません。特に強制されているわけではありませんが、よく顔を合わせる教会の人たちに「今日はどうして来なかったの?」と後から心配されるのも嫌でした。
また、家が教会とつながっている牧師館なので、牧師をしている父の仕事もよく見えました。教会に来ている人たちも、他の人たちと同じように、良いところも悪いところもあって、色んなトラブルがあるのを見ていました。両親が悩んでいることの多くは、教会で起こったことが原因でした。ストレスで重い病気にもなりました。
学校でも、教会について、キリスト教について、からかってきたり、嫌味を言ったりしてくる子たちがときどきいました。家が教会じゃなかったら、牧師じゃなくて、普通の信徒の家だったら……と考えることもありました。実は、洗礼を受ける前の私は、教会は自分のホームだけれど、大きくなったら出て行きたい場所でもありました。
そして、一度離れたら、たぶん戻って来ないんだろう……と感じる場所になっていました。自分が育った大事な場所だけど、どうでもよくはないけれど、同時に、ここから出て行きたい、離れてしまいたい「家」でもある……だからこそ、神様を信じていても、洗礼を受けたいとは、なかなか言い出せなかったんです。
けれども、弟が洗礼を受けるのに、自分が洗礼を受けないと言ったら、教会のみんなから「どうして受けないの?」「何が嫌なの?」と聞かれることになるだろうという予想がつきました。両親は自分の意思を尊重するだろうし、変わらず愛してくれるだろうけど、みんなから「何で洗礼受けないの」と気にされるのはしんどいなと思いました。
私が洗礼を受けた理由は、褒められた理由ではありません。何か確信があって、喜びにあふれて、決心したわけではありません。むしろ、信仰的には空っぽと言える状態に近かったかもしれません。家が教会なのに、その「家」に、自分が住み続けることをイメージできない人間でした。
そんな状態で洗礼を受けるのは、不謹慎かもしれません。信仰者の資格はないかもしれません。でも、さすがに両親や教会の人たちへ、そこまで正直に自分の気持ちを言うことはできませんでした。正直な私の気持ちを知っていたのは神様だけです。神様だけが、私の心の内にある「穴」を正面から見つめていました。
さて、洗礼を受ける日がやってきました。私と弟が洗礼を受けるときも、一年かけて準備会が行われました。けれども、その間に、私の心が大きく変わることはありませんでした。信仰的に成長したり、特別な確信を得られたりした感覚は、ありませんでした。父が私の頭に水をかけ、手を置いて祈ってくれたときも、期待した変化は起こりません。
もしかしたら、洗礼を受けた瞬間から、何か新しくなるんだろうか? 教会を自分が住み続ける「家」だと思えるんだろうか? それとも、やっぱり出て行きたい気持ちのまま変わらないんだろうか? そんなことを考えているうちに、洗礼式は終わってしまいました。次の週も、その次の週も、自分が大きく変わったようには思えませんでした。
何か、変わっているんだろうか? 新しくなっているんだろうか? このまま何も変わらないまま、教会へ行かなくなるんだろうか? モヤモヤした感覚を抱いたまま、数年が経ちました。ある日、私の後ろの席へ、脳梗塞を患ったおばあちゃんがやって来ました。数人の人に手を引かれて、支えられて、ゆっくりゆっくりやって来ました。
彼女はいつも、誰かの手を借りないと歩けませんでした。ゆっくりとしか進めませんでした。しかし、会堂へ入ると「サンキューベリーマッチ!」と言いながら、私たちへ挨拶して、「こんな幸せ者はいないよ」と呟いていました。たぶん、状況としては、幸せよりも困難な毎日を送っていたはずです。でも、彼女の言葉が全く嘘に聞こえませんでした。
本当に幸せなのが伝わっていたんです。満面の笑みで、今日も会えたことを喜んで、私の後ろに座って、細くて小さな声で賛美歌を歌っていました。今はもう、天に召されてしまいましたが、毎週、その人と会っているうちに、その人の姿を見ているうちに、私は自分が洗礼を受けたことを本当に喜べるようになっていました。
教会はもう、出て行きたい場所ではなく、住み続ける場所になっていました。今思えば、彼女を通して、キリストがわたしの心の内に入ってくださったんだと思います。内側から新しくされていたんだと思います。それは、彼女をはじめとする、キリストの愛を知った会衆が、洗礼を受けた私のことを、新しく迎え続けてくれたからだと思います。
もし、洗礼を受ける前、何かが欠けていて、何かが足りなくて、後ろ向きでいる自分がいたら、穴の空いている自分がいたら、周りの人たちを見回してください。私をはじめ、ここにいらっしゃる方々は、穴の空いた心にキリストが入って、住まわれるようになった人たちです。
自分の手で、穴を塞ぐことができなくても、キリストはあなたの内におり、あなたを強めてくださいます。洗礼は、キリストが、あなたに住まわれたことを知っていくスタートです。あなたを迎えた私たちが、あなたにキリストを見せていく、新しい出発です。私たちは互いに誓約を交わし、互いに支え合う仲間となります。神の民の一員となります。
神の家は、あなたを迎えて新しくなり、あなたもまた、新しい生き方に変えられていきます。今日はそのスタートです。共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを味わいましょう。神様が、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかりと立つ者としてくださるように……アーメン。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。