イエスが心を騒がせる【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨハネによる福音書12:20〜36
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
イエス様が十字架につけられる一週間前、大勢の群衆が、エルサレムにやって来たイエス様を迎え、ナツメヤシの枝を振って歓迎しました。イエス様が、マルタとマリアの兄弟ラザロを死者の中から甦らせ、一緒に食事をしたのを見て、「この方こそ救い主だ」と多くの人が信じたからです。
そんな中、五日後に行われる過越祭に合わせて、エルサレムで礼拝するためにやって来たギリシア人が、何人かイエス様を訪ねて来ました。この祭りは、エジプト人の奴隷だったイスラエル人を、神様が助けてくださったことを記念する祭りでしたが、イスラエル人でない異邦人の中にも、神様を信じて、礼拝しに来る人がいたようです。
けれども、ギリシア人は直接イエス様を訪ねることなく、弟子のフィリポに取り次ぎを頼みます。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」……どうも、自分たちだけでは、簡単にイエス様へ会うことができなかったようです。さらに、お願いされたフィリポの方も、すぐにはイエス様のもとへ案内せず、同じ弟子であるアンデレに相談します。
アンデレもまた、直接、ギリシア人をイエス様のもとまで連れて行こうとはしませんでした。先に、フィリポと2人で、イエス様へ話しに行きます。「あなたにお目にかかりたいと何人かのギリシア人が訪ねてきました。どうしましょうか? お会いになりますか?」そのように聞きに行ったんでしょうか?
さっさとイエス様に会わせればいいのに、何だか、会わせるのを渋っているように感じます。ギリシア人のことが嫌いだったんでしょうか? しかし、フィリポもアンデレも、異邦人と交流の多かったガリラヤ出身の人間です。2人とも、異邦人に馴染みのあるギリシア語の名前で呼ばれています。ギリシア人を毛嫌いしている描写もありません。
前日には、大勢の群衆がイエス様を出迎えて、「主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」と歓迎していました。「イエスにお目にかかりたいのです」と言ったギリシア人も、亡くなった人を甦らせたイエス様に、ひと目でいいからお会いしたい……自分たちも出迎えたい……そう願ったのかもしれません。
けれども、フィリポとアンデレは、この日出会ったギリシア人の出迎えに、すぐに答えることができず、よそよそしい態度を見せました。一方、2人から話を聞いたイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いながら「今、わたしは心騒ぐ」と口にして、自分にとって、辛い出来事が待っていると語ります。
異邦人の出迎えを喜んでいるのか、心を騒がされたと嘆いているのか、よく分かりませんよね? 実は、弟子たちがギリシア人の訪問を警戒するのも、無理のないことではありました。なぜなら、イエス様がラザロを生き返らせたあと、人々の支持が集まっていることに危機感を覚えたファリサイ派が、イエス様を殺そうと企んでいたからです。
そのため、イエス様は公然とユダヤ人たちの間を歩かなくなり、荒れ野に近いエフライムという町で、人目を避けて滞在していました。その間、祭司長たちとファリサイ派の人々は、「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と命令を出し、見つけ出して殺せる機会を伺っていました。
彼らは、イエス様の暗殺に留まらず、イエス様が生き返らせたラザロのことまで殺そうとするほど、多くのユダヤ人がイエス様を信じていくことに焦りと嫉妬を抱いていました。そんな中、イエス様は身を潜めていた荒れ野を後にし、弟子たちと一緒に、エルサレムへやって来ます。
案の定、イエス様の居どころは一瞬でばれ、たちまち拡散され、大勢の人々が集まってきました。イエス様の身を案じていた弟子たちは、気が気でなかったことでしょう。祭司長やファリサイ派が、いつ襲って来るか分かりません。そのため、翌日には、イエス様がどこにいるか分からないように、弟子たちは必死に人目から隠したのかもしれません。
ところが、これまた目立つギリシア人の訪問で、彼らの気配りは台無しです。この異邦人が、イエス様の居どころを見つけ出し、届け出ようとするファリサイ派たちの手先なのか、本当に、イエス様へ会いたくてやって来た人たちなのか、フィリポにも、アンデレにも、判断することができません。
どちらにしても、あまり多くの人たちに、イエス様の居どころを知られたくなかった弟子たちは、すぐには異邦人を案内せず、イエス様へ「どうしましょう……?」と相談します。このタイミングは嫌ですよね? 厄介な時に来ましたよね? そんな表情を浮かべながら、イエス様に話したんじゃないかと思います。
けれども、イエス様は「嫌なタイミング」とも「厄介な時に」とも言わず、意外な言葉を口にします。「人の子が栄光を受ける時が来た」……その後に続く言葉は、確かにイエス様自身の死を暗示し、十字架への道が一気に近づいたことを印象づけます。しかし、イエス様はこの出迎えを、自分にとって、迷惑でも、困るものでもなく、「栄光を受ける時の訪れ」だと言うんです。
ヨハネによる福音書には、結局、このギリシア人たちが、イエス様に会わせてもらうことができたのか、結果がはっきり書かれていません。しかし、29節で、イエス様の「そばにいた」群衆が出てくるので、おそらく、ギリシア人と会うために、イエス様自ら外へ出て、再び群衆に囲まれたんでしょう。
危険を顧みず、最悪のタイミングで訪れた人たちに、その姿を現したイエス様は、同時に、何が起きても平気だから、姿を晒したわけではないことを示します。「今、わたしは心騒ぐ」と口にして、十字架につけられることの、恐れを告白するんです。神の子なのに、救い主なのに、イエス様も心を騒がせるのか?……と驚く方もいるかもしれません。
なんなら、このあと14章で2回にわたって「心を騒がせるな」とイエス様自身が教えているのに「今、わたしは心騒ぐ」と言ってしまう姿に、矛盾を感じるかもしれません。けれども、「まことの人」であり「まことの神」であるイエス様は、私たちと同じ、心騒がせる身となりながら、私たちと一緒に、神の栄光を現していく方なんです。
「できることなら、牧師以外の道を与えてください」……そう祈ったことは山ほどありました。「できることなら、重い責任を負わせないでください」……そのように祈ることは今でも頻繁に出て来ます。「神様、私があの役目につかなくていいよう救ってください」……そのように祈ることは、これからもたくさんあるでしょう。
本当は「引き受けるべきこの役目を、私に引き受けさせてください」と祈るべきなのかもしれない……でも、「できることならこの杯を、この十字架を、私から取り除けてください」と祈ってしまう自分がいる。与えられた使命を果たすように、立ち向かわせてくださいと祈れず、「わたしをこの時から救ってください」と逃れる道を求めてしまう。
イエス様は、そんな私に、そんなあなたに、自分も心騒がせて苦しんだ姿を晒します。あなたが平気でなかったように、イエス様も平気ではありませんでした。痛みや不安を感じない方ではありませんでした。むしろ、揺れ動くあなたがいるところに、この方はいつもおられたんです。今も、あなたと一緒にいるんです。
心を騒がせちゃいけないのに……立ち向かわなきゃいけないのに……信じなきゃいけないのに……もうやめさせてくださいと、逃れさせてくださいと、そう言いたくなる私たちに、イエス様は臆せず、「わたしもそうだ」「わたしもあなたと同じところにいるんだ」と隣に座ってくださいます。
そして、一緒に立ち上がるまで、身体の震えが止まるまで、一緒に使命を果たすまで、付き合い続けてくださいます。すべての人を自分のもとへ引き寄せて、神の栄光を一緒に現してくださいます。だから、この方の言葉を受けとめなさい。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」アーメン。
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