ためらっていた【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 使徒言行録11:1〜18
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」そう言ってペトロを非難する人々の態度は、あからさまな人種差別や民族差別に思えます。割礼とは男性の包皮の一部を切り取る儀式で、ユダヤ人なら生まれて間もなく、親から施されるものでした。
つまり、割礼を受けているかどうかは“ユダヤ人かどうか”を意味することになり、「割礼を受けていない者」というのは、非ユダヤ人である異邦人のことを指しています。ようするに、ペトロはユダヤ人以外の者と、一緒に食事をしたことが責められたわけです。外国人の家で、一緒に食事をするなんて、あり得ない!……というふうに。
それは「割礼を受けている者」たちからの非難でした。エルサレムにいる信徒のほとんどは、割礼を受けています。非難したのが誰であったか、具体的に書かれてはいませんがおそらく、エルサレムでペトロを迎えた使徒たちと、ユダヤにいる兄弟たち、イエス様が天に昇って居なくなる前から、共に行動してきた弟子たちも含まれていると思います。
あなたは異邦人のところへ行って一緒に食事をしたのか? 外国人の家へ入って、同じ食卓についたのか? そのように非難した者の中に、イエス様から聖霊を受けた、他の使徒たちや弟子たちも混じっていたと考えるのは、抵抗があるかもしれません。そんな民族主義的発言を、差別的な言動を、イエス様の選んだ人たちがするなんて……と。
けれども、ここで責められているペトロ自身、異邦人を家に迎えたり、彼らの家へ行くことを、ためらってきた人間でした。もともと、割礼を受けていない者と食事をするのは気の進まない人間でした。在日朝鮮人の人、被差別部落出身の人、セクシャルマイノリティーの人と、食事なんてしたくない……という人のように、ペトロも差別をしていました。
彼は、潔く正直に、神が清めた物を清くないと言い、3度も拒んでしまったことを告白します。もともと、ユダヤ人が異邦人との接触を嫌うのは、神でないものを神とする、異教の習慣が持ち込まれないよう、掟で定められていたからで、ペトロも「神様がそう教えているから、異邦人とは関わらない」「汚れを持ち込まないためだ」と思っていました。
しかし、神様から直接、「わたしが清めた」と言われても、「清くないなどと言ってはならない」と注意されても、なかなか受け入れられない自分がいたことを、ペトロは正直に白状しています。結局私は、神の教えかどうかではなく、神が命じたかどうかではなく、自分の偏見や嫌悪感に従って、異邦人の扱いを決めていたんだと明かします。
衝撃的な告白です。天から聖霊を受けた使徒の一人が、弟子たちの中心的存在であったあのペトロが、神から直接幻を見せられ、声をかけられたにもかかわらず、神が清めた物を「汚れている」と言い、3度も拒絶し、幻が消えるまで受け入れられなかったんです。イエス様を3度知らないと言ってしまった過去の失敗が、再び思い出されます。
けれども、神様はそんなペトロに、幻を見せ終わったあとも、カイサリアから異邦人を遣わし、彼らを迎え入れるよう、彼らと一緒に出かけていくよう命じます。「ためらわないで、一緒に行きなさい」……あなたが避けてきた彼らを受け入れることは、私を受け入れることだと、根気よく語り続けます。
神様から、そのように促されてきたペトロは、今まで拒んでいた異邦人の家に入り、一緒に食事をして、彼らと話し出した瞬間、不思議な光景を目にします。それは、自分たちがペンテコステの日に、約束された聖霊を受け、炎のような舌が一人一人の上に留まったときのように、彼ら異邦人の上にも、聖霊が降ってきたことです。
ユダヤ人である自分たちと同じように、異邦人である彼らも、イエス様の弟子として、良い知らせを伝える者として、神様に送り出され、受け入れられている。そのことを目の当たりにするんです。異邦人に関わることは、神の掟で禁じられ、汚れることとされている……もはや、そう言い続けることはできません。
「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」……ペトロの言葉を聞いて、今まで非難していた人たちは静かになりました。
神様が、異邦人に信仰を与え、聖霊を送ってくださったと聞いても、なお、彼らを受け入れられないのは、結局自分たちも、神の教えではなく、自分の嫌悪感に従って、異邦人の扱いを決めていたからだと分かったためです。それは、とてもショックなことでした。ペトロを非難していたことが恥ずかしくなりました。どうしたらいいか分かりません。
けれども、誰かが思い切って口を開きます。「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」……気まずい沈黙から、一人、二人と、その声に賛同し、神を賛美する声が重なっていきます。異邦人と関わることを非難していた自分から、異邦人を仲間に迎え、歓迎する自分へと、新しく変わろうとする、第一声がもたらされます。
もともとみんな、ためらっていました。教会であっても、信仰者であっても、聖霊を受けた使徒であっても、積み重ねられた差別や偏見から、常に自由でいたわけではありません。それらに囚われ、神様が仲間にした人たちを、受け入れられなかった経験が、正直に告白されています。
来週、7月の第二日曜日は、「部落解放祈りの日」として定められている聖日です。私たち日本の教会も、部落出身の人やハンセン病にかかった人へ、度々、差別的な扱いをしてきました。今でも、LGBTQの人や海外から来られた人に、偏見に満ちた、誤った言動をしてしまうことがあります。
けれども、教会は、そのような自分たちの姿を、聖霊によって気づかされ、正直に告白し、新しく変えられていく共同体です。拒んでしまった人と和解し、神の民として、一緒に歩み始める共同体です。今までも、これからも、私たちが、神様の思いから離れてしまうとき、その姿に気づかせ、悟らせ、立ち帰らせてくださる神の霊がついています。
だから、心騒ぎ、不安になる夜は、これから私たちに起きることを思い出しましょう。受け入れられなかったものを受け入れるまで、変われなかったものが変われるまで、神様は付き合い続けて来られました。罪人が罪人のまま、正しくない者が正しくないままにはされませんでした。
どんなに傷つき、悲しみ、憤ることがあっても、神様は私たちを見捨てませんでした。私たちが、新しく変わっていくことを信じて、それを実現してきました。たとえ今、自分が間違っているかどうか、どのように変わるべきか分からなくても、神様は、あなたの道を整え、新しく送り出してくださいます。
そのしるしとして、私たちは今日も、主の食卓を囲み、聖餐式を行います。どうか今、私たちの間に、この世界の間に、神様とイエス様から送られてくる聖霊が、豊かに注がれ、変化と回復をもたらしてくださいますように。全ての者を悔い改めさせ、和解をもたらし、命を与えてくださる神に、世々限りなく、栄光がありますように。アーメン。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。