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言(ことば)は神であった【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ヨハネによる福音書1:1〜14

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 この時期、教会に何度か足を運んだことのある人は、クリスマスの礼拝で、最初に、ヨハネによる福音書の冒頭が読まれるのを聞いたことがあるんじゃないかと思います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」……ちょうど、24日のクリスマス聖夜礼拝でも、礼拝の初めに、招きの詞として、この聖句が読まれていました。

 しかし、初めて聞いた人は「どういうこと?」と混乱してしまう文章です。なぜ、キリストの誕生を記念するクリスマスに、この聖句が読まれるのかも、不思議に感じるかもしれません。何だか抽象的な言葉が続くし、読者を煙に巻くような表現が並んでいるため、ヨハネによる福音書が、ちょっと苦手な方もおられます。

 ただ、ここに出てくる「言」という単語を「イエス」という名前に置き換えると、意味が通じるようになってきます。「初めにイエス・キリストがおられた」「イエスは神と共にあった」「イエスは神であった」「このイエスは、初めに神と共にあった」……いわゆる、ロゴス・キリスト論と呼ばれる表現です。

 実は、ヨハネによる福音書の冒頭は、ナザレのベツレヘムという町でお生まれになったイエスこそ、神の言葉が肉となって(受肉して)、この世に遣わされた方であるという宣言をしたものなんです。キリスト教の教義である「三位一体論」を形作った要素の一つでもありました。続く文章も「言」を「イエス」に置き換えていくとこうなります。

 「万物はイエスによって成った。成ったもので、イエスによらずに成ったものは何一つなかった。イエスの内に命があった。命は人間を照らす光であった」……つまり、2000年前にナザレで生まれたイエス様は、それ以前から父なる神と共におられ、創造の業に携わり、人々を照らし、命をもたらす者として、一致する意志を持っているという表現です。

 よく、旧約に出てくる「世界を創造した神は裁きの神」で、新約に出てくる「イエス・キリストは愛の神」というふうに言われることがありますが、実際には、世界を創造した父なる神と、子なるキリストは一体で、悪を放置して歪んだ状態のままにせず、正しい状態へ回復させる両者の姿は、新約にも旧約にも出てきます。

 そして、ヨハネによる福音書では、「言」の他にも、「光」や「命」がイエス・キリストを指す表現として用いられ、イエス様自身も、「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」「わたしは道であり、真理であり、命である」と多様な表現をしています。それらはいずれも、私たちが生きていくために必要な、欠けてはならないものでした。

 光がなければ、私たちはどこを歩けばいいか分からず、命がなければ、私たちは存在することもできず、パンがなければ、その命をつなぐことさえできません。道がなければ、前へ進めず、真理がなければ、歪んだ状態から正しい状態へ回復することができません。言、命、光、パン、道、真理のないところで、私たちは生きていくことができません。

 ヨハネによる福音書15章では、イエス様からこんな言葉も語られていました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

 ここでも、イエス様なしに、私たちは生きられないことが語られています。ただ、世界にはイエス・キリストを信じてない人、キリスト教を知らない人もたくさんいます。このクリスマスに、初めて教会を訪れ、初めてクリスマスがキリストの誕生を記念する日だと知った人だっているでしょう。

 結局、イエス様が居なくたって、イエス様から離れていたって、生きている人はいっぱい居るじゃないか? と思われるかもしれません。しかし、イエス様が誕生した、クリスマスの出来事を思い返すと、そもそも、神様が遣わした救い主は、最初から救い主を受け入れていた者ではなく、むしろ離れていた者と……すぐには受け入れられなかった、理解することができなかった、信じることができなかった人たちと共に居られます。

 マリアは、天使に教えてもらうまで、自分のお腹に、聖霊によって身ごもった、子どもがいると気づけません。その子が、神の子である救い主だと言われても、「どうしてそのようなことがありえましょうか」とすぐには受け入れられません。天使がねばり強く、マリアを安心させ、何が起こったのか説明するまで、彼女はイエス様の母親になることを否定しようとしていました。

 ヨセフは、夢でお告げを受けるまで、自分の婚約者に、神の子である救い主が宿っていると、信じることができません。聖霊によって身ごもったことが明らかになってからも、ひそかに別れようと、妻と子どもから離れようとしていました。彼は、天使に、その子が誰か教えられるまで、イエス様の父親になることを拒絶しようとしていました。

 エルサレムの人々は、東から来た占星術の学者たちが、新しい王の誕生を知らせたときそれが「良い知らせ」だとは思わずに、不安を抱いてしまいます。星の光に導かれる、学者たちについて行けば、待ち望んでいた救い主の赤ちゃんと会えるのに、誰も、ついて行こうとしませんでした。人々は、赤ん坊が大人になって、宣教の業を開始するまで、イエス様が新しい王であることを否認しようとしていました。

 けれども、自分たちのもとに訪れた、救い主を受け入れられず、理解できず、信じられない人たちから、イエス様は離れていきません。神様は、彼らを放置できません。救い主を信じて迎え入れるまで、良い知らせを受け取ることができるまで、天使を遣わし、星で導き、洗礼者ヨハネに証しを語らせ、一人一人に命を得るよう促していきます。

 道のないところに道を作り、光のないところに光を照らし、真理を見失った人にその目を開く神の言が与えられます。実は、神様と出会わない人なんていないんです。キリストが訪れない人なんていないんです。いつ、どのように出会っていたのか、導かれていたのか、すぐには分からない私たちも、神様によって道を作られ、光を照らされ、命を養われているんです。

 今日は、神様から、命を受けようとしなかった者が、命を受ける者へと変えられていった、最初の出来事を記念する日です。イエス様を迎えようとしなかった者が、喜んで迎える者へと変えられていった、クリスマスの出来事を思い起こし、今、あなたにも、命を得るよう呼びかけ続ける神の言を、喜んで受け取る者となりましょう。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」アーメン。


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