葬りの準備だったのか?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 サムエル記9:27〜10:4、ヨハネによる福音書12:1〜8
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
油を塗るという行為は、聖書において特別な意味がありました。第一に、神様から遣わされた預言者が、誰かの頭に油を注ぐと、その人が新しい指導者になったことを意味しました。最初にイスラエルの王となったサウルも、サムエルから頭に油を注がれて、民の指導者に任命されました。祭司や預言者になる人も、度々、頭に油を注がれました。
第二に、亡くなった人の体に油を塗ることで、その人を埋葬するための準備になりました。香料を混ぜた油は、薬や化粧品にも使われましたが、遺体から発生する臭いを和らげ、最後のお別れに、しばしば用いられました。現在でも、聖公会やカトリックなど、一部の教会では、病人や臨終にある人のために、油を塗って祈りをささげる習慣があります。
神の子であるイエス様も、マタイによる福音書とマルコによる福音書で、頭に油を注がれています。どちらも、ベタニアにある、重い皮膚病の人シモンの家で、イエス様が食事の席についているときでした。けれども、突然、イエス様の頭に香油を注いだ女性の名前は記されません。なぜ、そんなことをしたのか、本人から説明もありません。
同様の記事が、ルカによる福音書にも出てきますが、こちらは病人の家ではなく、ファリサイ派の家で食事をしているときでした。イエス様に油を塗った女性の名前は、やはり記されていませんが、「一人の罪深い女」として出てきます。彼女の場合は、イエス様の頭にではなく、足を濡らして、自分の髪の毛で拭い、それから香油を塗っています。
この人の場合も、なぜ、そんなことをしたのか、本人の口からは語られません。どんな思いで、どんな目的で、食事をしていたイエス様に油を塗り始めたのか、誰にも説明されません。周りにいる人たちも、女性の行動に憤慨し、怒ったり、叱ったりしています。きっと、訳がわからなかったんでしょう。
マタイによる福音書とマルコによる福音書では、イエス様の頭に香油を注いだ女性に対し、「なぜ、こんな無駄づかいをするのか」「高く売って貧しい人々に施すことができたのに」と、弟子たちが責める様子を見せますが、ルカによる福音書では、罪深い女がイエス様に触れていること自体、よく思ってないファリサイ派の様子が描かれます。
確かに、食事の席についている人へ、いきなり、頭から油を注ぎかけるのも非常識ですが、女性が男性の足を自分の髪で拭き始める、というのも生々しく、見ていてギョッとするものです。ファリサイ派の人から見たら、イエス様が、風俗の女性に触れられるのをそのままにしているように感じたでしょう。
さて、ヨハネによる福音書はどうでしょう? 皆さんお分かりのとおり、先ほど読まれた聖書箇所は、3つの福音書に出てきたエピソードが組み合わさっています。マタイによる福音書とマルコによる福音書に出てきた地名ベタニアで、ルカによる福音書に出てきた罪深い女のように、女性が髪の毛でイエス様の足に触れ、ナルドの香油を塗っています。
ただし、その家は、重い皮膚病の人シモンの家ではなく、イエス様に甦らされたラザロの家で、イエス様に油を塗ったのは、ラザロの妹マリアでした。けれどもやはり、彼女がイエス様に油を塗った理由は、本人の口から語られません。ここでも、弟子の一人が「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言います。
1リトラ、約326グラムで、200万〜300万に変えられた高価な油……それを何の説明もなく、いきなり人の足に塗られたら、単に非常識な行為を越えて、愚かな無駄遣いにしか見えません。もちろん、周りにいる人たちも、油を塗ることに特別な意味があるのは知っていました。
新しい指導者、「王」や「預言者」の任命と、葬りの準備……けれど、彼女の行為がそれらを意味すると頭の中でつながりません。そもそも、神様に選ばれた指導者に油を注ぐのは、預言者や祭司の役目です。一般家庭の、しかも女性が、新しい王として選ばれた方に油を注ぐことなんて、彼らの発想にはなかったでしょう。
もしかしたら、マリア自身も、イエス様を救い主(油注がれた方)「メシア」と信じていながらも、その方に、自分が油を注ぐのは抵抗があったのかもしれません。私なんかが、イエス様の頭に油を注いでいいんだろうか? あなたはそんなことをするのにふさわしくないと思われないだろうか?
イエス様に洗礼を授けることをためらったバプテスマのヨハネのように、彼女も迷ったのかもしれません。罪深い女がファリサイ派の家で、イエス様の頭にではなく、足を拭って香油を塗ったように、自分も「罪深い女」であることを表しながら、その足に油を塗ったのかもしれません。
そんな彼女の行動を見て、口々に責める人たちへ、イエス様はおっしゃいます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」……マタイによる福音書とマルコによる福音書でも、イエス様は女性のことを「わたしを葬る準備をしてくれた」「埋葬の準備をしてくれた」と語っていました。
けれど、本当に「埋葬の準備」だったんでしょうか? 彼女は、イエス様を葬る準備のつもりで、香油を塗り始めたんでしょうか? 当たり前ですが、まだ死んでない、生きている人に、埋葬の準備を施すことは、失礼にしか見えません。しかも、マリアにとって、イエス様は、身内を生き返らせてくれた恩人です。
その人がこれから死ぬ用意をするなんて、彼女にも許容できないことでしょう。あなたは救い主です。どうか、これからも生きていてください……そのように言うのが普通でしょう。おそらく、マリア自身は、イエス様を葬る準備をしたつもりはなく、「あなたは私の救い主です」「あなたは新しい王様です」という信仰告白のつもりだったでしょう。
けれど、イエス様は、彼女が自分で受け入れられないイエス様自身の死のために、準備する者として用いられたことを語ります。実は、あまり意識されていませんが、イエス様の葬りの準備をした人たちが、聖書にはもう一組出てきます。それは、マタイによる福音書の最初の方に出てきた、東から来た占星術の学者たちです。
彼らは、イエス様が生まれてまもなく、星に導かれてやって来ました。新しい王が生まれたしるしを見つけて、異邦人であるにもかかわらず、イスラエルの人々へ、その誕生を知らせました。そして、初めて救い主の赤ん坊を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。
それらは、たいへん高価な宝物でしたが、同時に、人の死を連想させるものでもありました。乳香は、遺体の臭いを和らげるために、没薬は遺体の腐敗を防ぐために、度々使われるものでした。実は、占星術の学者たちも、新しい王を拝んだとき、その方の葬りの日の準備をしていたんです。
もちろん、新しい王の誕生を祝うため、幼な子を拝みに来た学者たちは、その子の死を準備するなんて、受け入れられなかったでしょう。イエス様が十字架につけられて死ぬ前に、「死んでから3日目に復活する」という約束を信じて、その死を受け入れられた人は、用意できた人は、一人もいませんでした。
にもかかわらず、イエス様は、自分の死を受け入れられない人たちが、葬りの日の準備をしてくれたと語ります。これから何が起こるか分からない人も、約束を信じきれない人も、私のために、私の為すべきことを果たすために、関わってくれたとおっしゃいます。あなたも、イエス様の教えと業に関わっています。あなたも用いられています。
キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節4週目を迎えました。イエス様の復活を記念するイースターまで、あと3週間……その準備に、あなたも用いられたことを思い出しましょう。あなたの献げた生き方を、豊かに用いてくださる主イエス・キリストに、栄光が、世々限りなくありますように。アーメン。
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