霊によって判断できる?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 コリントの信徒への手紙一2:11〜3:9
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「霊的である」とはどういうことか、よく考えさせられます。普通の人には分からないことが分かるようになる。見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかったものが聞こえるようになる。神聖な力を感じられるようになり、危険を察知したり、危機を回避するための選択が示されるようになる。
そういったイメージが、一般に広がっているかと思います。中には、超常現象を起こしたり、見えない敵、「悪魔」や「悪霊」と戦う力があることを「霊的」と表現する人もいるでしょう。人間の力で、対処できないもの、通用しないものがあっても、霊的な力で対応できる、解決を得ることができる……と言われたら、いくらか安心しますよね。
でも、「霊的である」「神の霊を受けている」って、私たちが思うほど、都合の良い便利な状態ではありません。神の子イエス・キリストが、洗礼者ヨハネからバプテスマを受け聖霊に満たされて帰ったあと、悪魔から40日間、誘惑を受けた話がありました。聖霊に満たされた直後なのに、悪魔につきまとわれてしまう。
しかも、霊的な力で追い払う、奇跡の力で勝利する記述はありません。イエス様は悪魔の誘惑に対し、「聖書にはこう書いてある」「神様はそんなこと望んでない」と、私たちが自分へ言い聞かせるのと同じように、悪魔へ言い聞かせるだけでした。何か、聖句を唱えたら、呪文のように、悪魔が苦しんで、退散するわけでもありませんでした。
間違いなく、聖霊に満たされた、霊的な状態であるにもかかわらず、悪魔の誘惑でイエス様の見せた姿は、なかなか「霊的」に見えません。また、聖書に登場する「神の人」「神の霊を受けた人」は、危機を回避するどころか、危機に直面していました。預言者はたいてい殺されかけ、神に背いた人々を、悔い改めさせることができません。
聖霊を受けたイエス様の弟子たちも、逮捕され、投獄され、乗せられた船は嵐に遭い、難破してしまうこともありました。霊に導かれ、遣わされた宣教地で、一人も仲間にできないまま、立ち去ったこともありました。霊的であれば、霊に満たされていれば、そういう状況にもめげず、平静を保って、活動できたかというと、そうでもありません。
コリントの信徒への手紙をはじめ、ガラテヤの信徒への手紙や、ローマの信徒への手紙など、神の霊に導かれ、数々の手紙を残してきたパウロは、その手紙の中で、かなり激しい口調で、怒っている様子も見られます。特に、コリントの教会では、多くの論争が生じており、パウロも攻撃にさらされたため、穏やかでない表現が多々見られます。
ところどころ、癇癪を起こしたような文章や、人格否定に見える表現が、自分を批判する人たちへ向けられていました。何なら、旧約聖書でも、霊に満たされて、預言する状態になった人が、激しく憤ったり、衣を裂いたりして、暴れ回る様子が出てきました。どうも「霊的である」って、私たちが期待する「理想的な姿になれること」ではないようです。
むしろ、神の霊を受けた人たちは、私たちが「霊的な姿」として想像するのと、違う姿もよく見せます。怒りや悲しみから解放されて、平静が保てる姿のことを、霊的な状態として期待していたら、神様に対して泣き叫び、灰を被って、嘆く姿が出てきます。霊的であるということは「あなたの理想像」と一致するわけではないんです。
同時に、霊によって示されることは、たいてい受け入れるのが難しい、私たちに不都合なことが含まれました。使徒言行録では、イエス様から聖霊を受け、神様に幻を見せられたペトロが、当時「清くない物」「汚れた物」とされていた動物を「屠って食べなさい」と命じられます。
それらはかつて、神様が人々に与えた掟、律法によって「食べてはならない」とされたもので、食べたら祭儀的に汚れ、礼拝に参加してはならない状態になる、と教えられていました。日本でも、神職の一部が、祭りの前に、肉や魚など特定のものを口にしたら霊的な力が失われ、ふさわしくない状態になるという考え方がありますよね。
ペトロにとっても、「霊的な状態を保つこと」とは相反することに見えたでしょう。彼は「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言って抵抗します。しかし、神様は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言って、抵抗するペトロに三回も、「屠って食べなさい」と命じます。
聖霊が降ったら、霊によって教えられたら、すぐに、それが受け入れられるわけでも、納得できるわけでもないことが、赤裸々に告白されていました。ペトロに命じられたことが「聖霊によって教えられた」と聞かされても、「それは、本当に神の霊が言ったのか?」「霊的な教えに聞こえない」と、すぐには判断できない人も多かったはずです。
実は、外から見て、ある人が霊的かどうかって、人間の目で判断できるものじゃないんです。私たちの想像する「霊的な姿」と、実際に「神の霊が降った姿」は、必ずしも一致しません。「霊的でない」と思っていた姿が、実は、「霊に満たされた」姿であることも、往々にしてあるんです。
伝道のため、日曜日の礼拝や、聖書研究祈祷会のメッセージを発信していると、他にも同様に、一生懸命、聖書の言葉を伝えている人たちと出会います。けれども、同じ伝道をしている人たちに対し、「あの人は聖霊を受けている」「あの人は聖霊を受けてない」と、どの牧師が、霊的か、霊的でないかを、判断する人たちが現れます。
パウロが手紙を書いたコリントの教会でも、「パウロは霊を受けてない」「アポロは霊を受けている」「いいや、パウロの方が霊を受け、アポロは霊を受けてない」と、判断する人たちが出ていました。同じ宣教者相手でも、自分が霊的と思うか思わないかで、報酬を与えるかどうか、決めようとする人たちがいました。
パウロはそれに対し、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」と言って、自分やアポロが、霊を受けているか、受けていないか、判断を下そうとする人に、それ自体、間違った態度であることを伝えています。「わたしたちは神からの霊を受けました」と宣言し、自分もアポロも、同じ神様に仕える者だと訴えます。
私もよく、聖書研究祈祷会で、誰に霊が降っているか、誰が聖霊を受けているか、安易に判断することは、褒められたことではありません、と話しています。もし、コリントの教会と同じ状態に陥っているなら、誰が霊を受けているか、誰が霊的な人間か、自分たちの目で評価しようとしていたら、その態度こそ、霊の人から程遠い、肉の人の歩みです。
「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」……けっこう痛烈に、この言葉が響いてきます。大切なのは、神様に与えられた使命のため、信仰のために、力を合わせて働くことで、目に見えないものを理由に、ねたみや争いを起こすことではないんです。
けれども、神の霊が降っていれば、自分自身が、聖霊に満たされていれば、他の人に、霊が降っているかどうかを判断できる、霊が降っていない人を批判できる、と思われるかもしれません。しかし、パウロは、「霊の人」とは言い難い、「肉の人」と言わざるを得ない人たちに、鞭や棒を打つのではなく、乳飲み子と接するように語りました。
「あなたは霊を受けていないから、聖霊が降ってないからダメ」と不安を煽り、脅して追い詰めるのではなく、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と言って、神様の実りがもたらされる、神様が宿られる者であることを、繰り返し語っていきました。私は霊を受けているのか、霊によって判断できるか、分からない、と落ち込む必要はありません。
むしろ、神の霊は、あなたが判断したいものを判断させてくれるわけではありません。あなたが知ろうと思っていなかったこと、気づこうと思っていなかったこと、しようと思っていなかったことを、知らせ、気づかせ、させてしまうのが聖霊です。あなたの向きが変えられて、行こうとしなかったところへ連れて行かれるのが霊を受けるということです。
たとえ、あなたが判断したいものを、判断できない状況でも、あなたに、新しいものを見させる力、新しい気づきを得させる力は、今も働き続けています。あなたを成長させてくださるのは、他ならぬ、神ご自身です。あなたに豊かな実りをもたらし、あなたに住もうとされているのは、私たちに霊を注いだ神様です。だから、安心して行きなさい。
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