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パウロも洗礼をためらった【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録22:12〜16
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html
《メッセージ》
自分が洗礼を受けるとき、「本当に受けていいのかな?」「本当はまだ、受けたらいけないんじゃないか?」と考えたことのある人は、実は少なくありません。今まさに、これから洗礼を受ける人、あるいは、受けようか迷っている人も、「やっぱり、自分が受けちゃダメな気がする……」としばしば迷うことがあるでしょう。
だって、聖書の言葉に従って、信仰生活を送るなんて、本当にできるか自信がない……自分のことを「クリスチャン」「信仰者」と名乗るなんて、おこがましいと感じてしまう。ついこの前も、聖書の言葉につまずいたし、今だって「キリスト教の教えがしっかり理解できました」とは言い難い。
そんな自分が、今から「キリストの弟子」を名乗れるのか? 洗礼を受けて「清められた生活」をしていけるのか? 受洗してすぐ、だらしない生活に戻るんじゃないか? 今までと変わりなく、疑ったり、迷ったり、神様を忘れたりすることが続くんじゃないか? 洗礼を勧めてくれた人、受け入れてくれた教会に、かえって迷惑をかけないか?
何より不安なのは、これから過ごす教会で、自分が信仰者として、ちゃんと受け入れてもらえるのか……というところです。「まだ洗礼を受けるには早かったね」とか「そんなんじゃ信仰者としてダメダメだよ」とか言われたりしないか? 後からそう言われるくらいなら、このまま洗礼を受けないか、もうしばらく、先延ばしにさせてほしい。
実際、こういうところが気になって、もう何年も教会へ通っているのに、洗礼を受ける決心がつかない人も大勢います。じゃあ、洗礼を受けた人は、その辺りの不安がなくなったのかと言えば、決してそうではありません。今だって聖書の言葉につまずくし、自分を信仰的とは思えないし、教会にとって、お邪魔虫なんじゃないかと思うことがある。
たいして奉仕もできないし、むしろ、礼拝に来ることで、みんなにとって余計な負担を増やしているんじゃないか? 私がここにいることで、クリスチャンをしていることで、迷惑をかけ続けているんじゃないか? 神学生の頃から、伝道師を経て、今に至るまで、こういう声は山ほど聞いてきました。
「そんなことないですよ」「けっこうみんな同じこと思いながら来ているんですよ……」と答えても「いやいやそんなわけ……」「私だけですよ」と返されることが続いています。牧師にとっては、多くの人から言われることですが、洗礼を受けること、教会の一員でいることに、ためらいを覚える人たちは、自分だけじゃなくて、皆さんの身近にいるんです。
そして、振り返ってみると、洗礼を受けるのをためらい、洗礼を受けた後も、自分がいることで、教会に迷惑をかけてないか、負担をかけてないか、しばしば不安になったのはパウロも同じだったんだと思います。というか、パウロほど、洗礼を受けることで、教会の一員になることで、会衆の平安を脅かした人は、他に居ないんじゃないかと思います。
なぜなら、彼は、アナニアに洗礼を勧められる直前まで、復活したイエス・キリストの幻に出会うまで、各地のキリスト者を捕まえて回り、処刑するため活躍していた「反キリスト」の人だったからです。各地の教会には、彼によって捕まった人、処刑された人を友人に持つクリスチャンが大勢いました。もちろん、家族を奪われた人たちも。
そんな人が、突然洗礼を受けたところで、みんな受け入れられません。キリストの幻に会ったんだと言われても、それ自体、納得がいきません。どうして、私の大切な人を捕まえて、牢に閉じ込めたこの人が、私から家族を、友人を奪い、教会を、居場所を、破壊してきたこの人が、イエス様に直接声をかけられるんだ!……と。
実際、パウロのために、手を置いて祈るよう、神様に命じられたアナニアも、最初は抵抗していました。この人がどういう奴か知らないんですか? 私たちの身内を貶め、迫害してきたあのパウロですよ? この人を仲間に、イエス様の弟子にするんですか? アナニアは納得いきません。自分だけじゃなくて、他の人たちもそうでしょう。
視力を失ったパウロのために、自分が祈って目を開かせれば、彼に恨みを持つ人たちから「なんてことをしてくれたんだ……」と言われてしまいます。パウロばかりか、自分まで、キリスト者の仲間から、恐れられてしまいます。「あの人は、私たちの教会をめちゃくちゃにした人間の目を開き、仲間のところへ連れてきてしまった……」
当然、教会を守ろうとする人たちと論争になります。「自分も神様からこう聞いたんだ」と言っても、「嘘だ! 悪魔の囁きに惑わされたんだ!」と言い出されたら、一気に雲行きが怪しくなります。パウロを迎えて、彼のために祈るだけでもリスクが大きいのに、彼に洗礼を授けて仲間にするなんて、考えられるはずありません。
パウロ自身も、アナニアの家を訪れた当初は、洗礼を受けようなんて思えなかったに違いありません。だって、イエス・キリストが本当に神の子だったと知ってからは、自分がどれだけ理不尽なことをしてきたのか、正しい人を貶め、神様を裏切ることをしてきたのか、気づかされてしまったからです。
「仲間になりなさい」「洗礼を受けなさい」「私たちの教会の一員になりなさい」と言われても、答えられないのが普通でしょう。自分が仲間になることを受け入れられない人たちがたくさんいることは予想がつきます。自分が洗礼を受けることで、その是非を巡って大論争になることも、教会が割れてしまうことも想像できます。
無理です。私は洗礼を受けるべきじゃありません。私は罪深い者です。ゆるしてもらえるはずがありません。私が洗礼を受ければ、あなたの教会で大論争になります。私を恐れて、受け入れられない人たちに、あなたも攻撃されてしまいます。私が入れば迷惑になります。あなたの仲間にはなれません……。
ところが、実際にパウロと出会い、彼のために「元どおり見えるようになりなさい」と祈ったアナニアは、こう言います。「何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方(イエス・キリスト)の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」……パウロのために、祈ることをしぶっていた人間とは思えない言葉です。
アナニアは、イエス様と出会ったパウロを見て、一緒にいた人たちに手を引かれてくるのを見て、これから起こる論争を、頭に思い浮かべつつも、自然に告げていたんです。「あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる」……あなたの手を引いてきたのは、あなたをここへ連れてきたのは、他ならぬイエス様なんだ。
いつだったか、イエス様が洗礼者ヨハネに頼んだ言葉が聞こえてきます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)そう……洗礼をためらうあなたをここへ連れてきたのは、あなたがここに居ることを望んだのは、他ならぬイエス様なんです。
洗礼を受けること、教会の一員でいることに、ためらいを覚える全ての者へ勧めます。あなたの手が誰に引かれてきたかを思い出しなさい。あなたをここへ招いたのは、あなたをここへ遣わしたのは、あなたをここに受け入れたのは、誰だったか、思い出しなさい。あなたの目が開かれたとき、そこにいる方が見えるはずです。仰ぎ見よ、主の恵み深さを。
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