終末が語りづらい【日曜礼拝】
《はじめに》
福岡の春日東教会で行った礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ルカによる福音書17:20〜23、フィリピの信徒への手紙1:3〜7
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「裁きの日」「終末の日」「審判の日」「終わりの日」……こういった言葉に触れること、語ることに、慎重になってしまうのは、私だけではないでしょう。今年の夏に「カルトと終末」というテーマで『礼拝と音楽』という雑誌に、記事を書かせてもらったことがありました。
そのときも思いましたが、年々「世の終わり」について、「主の日」について、語ることを敬遠する、避けようとする傾向が、自分の中で強くなっている気がします。その原因は改めて言うまでもありません。これらの言葉は、多くの破壊的カルトと結びつく単語になったからです。
奇しくも、福岡地区の信徒大会に「カルトと教会」というテーマで講演を頼まれ、同地区の礼拝で、メッセージをすることになった日曜日、教団の聖書日課で「審きの日」というテーマが当たってしまいました。しかも、教会の教育週間に……「このテーマから逃げるな」と、神様に言われた気分です。
厄介なことに、このテーマは、入信を促すための脅しとして、不安や恐怖をあおる材料として、度々カルトが使ってきたものです。「カルトが……」と言いましたが、実際には、私たちキリスト教会も、長い間、何なら今も、洗礼を勧めるためのトピックとして、程度の差はあれ、語り続けているものです。
洗礼を受けなければ、審判の日に救われない!……神の国、天の国に受け入れてもらえない!……その日が訪れる前に、信仰を告白して、信徒になりなさい!……あからさまにそうやって勧められた人もいれば、もう少しマイルドに言われた人もいるでしょう。あるいは、裁きについて、終末について、イエス・キリストの再臨について、あまりしっかり触れないまま、洗礼を受けた人もいるでしょう。
何となく、神様を信じていたら、イエス様を信じていたら救われる、神の国に受け入れられると思っている。でも、イエス・キリストが、再びこの世に来られる日、「再臨の日」が来たときも、なお、信じていない人は、信じないまま死んだ人は、「救われない」と言うべきか、そうでないのか、分からない。
教会に来てない家族や友人、あるいは、教会から去ってしまった、仲間のことを考えると、信じない人はどうなるのか、身内や周りはどうなるのか、突き詰めて考えたくはない。カルトみたいに、「終末が来る」と恐怖をあおり、「信じなければ救われない」と脅迫し、力任せに信者を増やしていくような、怖い団体になりたくない。
とても健全な感覚です。一方で、「カルト」と思われたくなくて、「危険だ」と思われたくなくて、「裁きの日」「終末の日」に、触れなくなったことにより、余計に、私たちはその日について、裁きと救いについて、曖昧なまま、問いかけないまま、放置するようになりました。
その隙を狙って、多くの教会が語らない「裁き」について、「終末」について、「私たちが教えます」と、既成教会に忍び寄る、乗っ取り型カルトも増えてきました。世の終わりがいつやって来るのか、救い主はどのように現れるのか、暗号を解きほぐすように、秘密をこっそり聞かせるように、囁く人たちが近寄ってきます。
実際、こういう囁きは魅力的です。世界の終わりはどうなるのか、どうやって滅びを免れるのか、救われる方法を授けられ、みんなのために行動できる……家庭や、職場や、近所や、学校で、様々な問題に振り回されている自分でも、裁きの日に、どうしたら救われるかを知っている……そんな優位に立てるからです。
しかし、イエス様は、世の終わりに、自分が再び訪れる、その日について語る際、はっきり警告していました。「あなたがたが、人の子の日を 一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない」「その人々の後を追いかけてもいけない」
そう、キリストが再び来られる日のことを、私たちが見ようとしても、見つけようとしても、見ることはできないし、見せることもできません。見せようとする人がいても、ついて行ってはいけません。それは、イエス様が「追いかけてはいけない」と警告した人たちです。実は、「終わりの日を見ようとすること」「再臨の日を見つけようとすること」は、求められていないんです。
聖書に出てくる数字を並べて、その日がいつか計算することも、聖書に書かれた象徴的な言葉を挙げて、メシアの登場を予測することも、求められていないんです。黙示録も、預言書も、世界情勢や、未来を予測するための「水晶玉」ではありません。これらは、世界の終わりが迫っていても、神の計画は滞ることなく進んでいる、という励ましのための文書です。希望を捨てないための言葉で、未来を詳しく知るための道具ではありません。
きっと、中には「その日が来た」と分からなければ、「再び来られた救い主」に気づかなければ、救われることができないと、怯えている人もいるでしょう。でも、最初から、その日を「見て」知ることはできません。今が、その時かも分かりません。立派な信仰の持ち主なら、気づけるわけでもありません。どのタイミングで、何をしないとダメだとか、「秘密の攻略法」はありません。
世の終わりの攻略法を探すこと自体、求められていないんです。イエス様が求めたのは強引に人を集めることでも、生活が破綻する献金でも、無理やり洗礼を受けさせることでもありません。恐怖心から伝道することでも、救われるために誰かを排除することでもありません。互いに愛し合うことです。平和を実現することです。それを願って、神様に祈り、頼ることです。
また、神の国が訪れる「終末の日」を語るとき、イエス様ははっきり言いました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」
もし、何かの事件や現象を通して、世の終わり、神の国の到来が、「自分だけ特別に見えた」と言い始めたら、「自分だけ特別に分かった」と言ってきたら、それは、神の国の到来ではありません。神の国は、誰かがみんなから離れたところで、こっそり知らされるものではありません。あなたがたの間にあります。皆さんの間にあります。
何か、特別な秘密を知った者だけが、味わえるものではないんです。他の人が見えないまま放置され、自分だけ見えているものでもありません。信仰者なら「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもありません。そう断言する人がいても、ついて行ってはいけません。それは、追いかけてはいけない「偽預言者」です。
神の国がどこにあるのか、いつ来るのか、見えなくて、分からなくて、不安に思う方々は、どうか安心してください。神の国は、見える形では来ないからです。見えないこと、分からないことは、救いから外れたことを意味しません。復活したイエス様が、自分を見ても、自分だと分からなかった弟子たちに、何と告げたか思い出してください。
「あなたがたに平和があるように」「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」……同じように、キリストが再び来られる日、再臨の日に、あなたがイエス様を分からなくても、キリストの再臨を疑っても、「疑ったまま」にはされません。イエス様は、あなたが「信じない者」から「信じる者」となるように、ご自分を示してくださいます。
パウロもそうでした。イエス様が復活してなお、疑い続け、あちこちでキリスト教徒を迫害していました。しかし、そんな彼にも、イエス様はご自分を示し、信じない者から、信じる者にされました。疑ったままにされませんでした。だからこそ、パウロはフィリピの信徒に向けて、力強く語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」
実は、フィリピの信徒も、問題なく、疑いなく、信仰生活を送れたわけではありませんでした。パウロの伝道旅行によって、ヨーロッパで最初にできた教会でしたが、パウロは間もなく、逮捕され、投獄され、解放後も、すぐテサロニケへ行ってしまいます。残された信徒たちは、その時代、白い目で見られ、ときには社会から排斥される仕打ちを受け、自分たちも逮捕されたり、殺されたり、家を荒らされたりしていました。
よく見ると、複数の聖書箇所で、イエス様が語っている、「世の終わり」「終末の日」が訪れるときと、重なる体験をしています。誰かに攻撃され、争いが激化し、災害に巻き込まれ、命を脅かされる……もはや、この世に希望なんて見出せず、世界が終わりに向かっていく……神の救いをどれだけ待っても、一向にその気配がない。
空を見ても、自分たちを助けてくれる、天の軍勢はやって来ないし、地上を見ても、救い主の姿はない。私はこのまま救われず、ただ終わっていくんだろうか? 悪に支配されたまま、滅ぼされていくんだろうか?……そんなとき、イエス様の言葉が響いてきます。「神の国は、見える形では来ない」「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」
そう、神の国が訪れる「キリスト・イエスの日」は、私たちの目に見えませんが、既に始まっているんです。既に、イエス様は、私たちの間におられ、私たちと一緒に苦しまれ、私たちを支えているんです。神の国が完成する、神の支配が完成される「その日」まで、私たちは、見えない方と共に歩み、新しい変化をもたらされます。
「世界の終わり」に思われる、迫害の時代を生き延びて、新しく私たちの時代へ、イエス様の教えと業を伝えてきた、信仰の先人たちのように……戦争や、災害や、事故や、事件を過ぎ越して、希望と励ましを語ってくれた、たくさんの証し人のように……見えない方との再会は、「既に」始まっていて、「今も」完成に向かっているんです。
終末の日は、「救われる者」と「裁かれる者」に分けられる、「審判」で終わる日じゃありません。最後まで自分に従えない者を、見捨てられてなお、会いに来て、ご自分の弟子と呼ぶ方が、あらゆる人の間に立って、呼びかけに応えさせる日です。死んでなお、手を取って起こされ、応えないはずの者たちを、新しく応えさせる日です。
死を越えて復活し、信じなかった者を、信じる者に変えた方は、今なお、信じない者と信じる者の間に立って、私たちの間に、神の国をもたらします。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」……一方にだけ訪れるものでも、一方にだけ見えないものでもありません。私たちの間にあって、私たちみんなを、救いの完成へと導きます。
どうか、その日が来るのを、疑いながらも、揺れ動きながらも、信じて待ち続けることができますように。恐怖や不安によってではなく、希望と励ましによって、信仰を告白する仲間が、加えられていきますように。キリスト・イエスの僕である私たちから、春日東教会にいて、キリスト・イエスに結ばれている、聖なる、皆さんへ伝えます。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」……わたしは確信しています……共に祈りを合わせましょう。
《お祈り》
愛と平和の源である、私たちの神様。
あなたのことを見ても見えない私たちに、あなたは自ら、ご自分を示してくださいます。
疑い、迷い、揺れ動く私たちを、信じない者から、信じる者へ変えられます。
どうか今、その恵みを、良い知らせを、ここにいるみんなが受け取れますように。
私たちも、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げていくことができますように。
あなたの平和が実現し、あなたの栄光が現され、あなたの御名が、豊かに褒め称えられますように。アーメン。
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